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読売ジャイアンツについて

読売ジャイアンツ

読売ジャイアンツ(よみうりジャイアンツ、Yomiuri Giants、読売巨人軍)は、日本のプロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。日本に現存する中で最も歴史の長いプロ野球球団である。親会社は読売新聞グループ本社。運営法人の商号は「株式会社読売巨人軍」である。

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球団の歴史

誕生
1931年、読売新聞社社長の正力松太郎が中心となってアメリカメジャーリーグ選抜軍を日本に招待し、全日本軍や六大学を中心とした強豪大学チームとの試合を行い興行は成功を収めた。これを受けて正力は再度のメジャーリーグ選抜軍の招待、特に前回かなわなかったベーブ・ルースの招聘を目論んだ[1]が、そこに1つの問題が発生した。1932年に文部省(当時)が発令した野球統制訓令である。当時の日本は大学野球全盛であったがこの統制令によってメジャーリーグ選抜を招聘したとしても大学チームを対戦相手とすることはできなくなった。

市岡忠男、浅沼誉夫、三宅大輔、鈴木惣太郎の4人は、その対策として職業野球チームを結成することを正力に働きかける。その結果1934年6月9日、日本工業倶楽部で「職業野球団発起人会」が開かれ6月11日には創立事務所が設けられた。平行して選手獲得も行われプロ契約第1号選手として6月6日付で三原脩、第2号選手として6月15日付で苅田久徳を獲得する[3]などチームが形作られていった。この時日米野球の期間中のみ契約するという選手と日米野球後に発足する職業野球団とも契約するという選手とがあった[4]。

「読売巨人軍発祥の地」の碑、谷津バラ園入口脇、習志野市1934年10月15日、千葉県の谷津海岸に新設された谷津球場に30名[5]の選手が集まりチームは結成され11月2日、横浜にメジャーリーグ選抜軍が来日し全日本軍と全国で親善試合興行を行った。試合は全日本軍の15戦全敗(他に対全東京が1試合、日米混合が2試合[6])で試合内容も圧倒的だったものの、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを擁した全米軍は読売新聞の報道もあって大きな注目を集めた。この時の1試合が草薙球場にある沢村栄治像とベーブ・ルース像の元となる、沢村が1失点完投した試合である。12月26日に全日本軍の選手を中心にした選手19名で株式会社大日本東京野球倶楽部(だいにっぽんとうきょうやきゅうくらぶ)が結成された。

1935年1月14日から2月3日まで草薙球場で練習を重ね、2月14日第1次アメリカ遠征に出発する。この時「大日本東京野球倶楽部」ではチーム名として長すぎる事からアメリカで一般的であったチームのニックネームをつけることが提案され、チーム名を「東京ジャイアンツ」とした。そして帰国後、1936年に東京巨人軍(とうきょうきょじんぐん)へ正式改称する。これが巨人軍の始まりである。この第1次遠征ではマイナーリーグクラスのチームを相手に128日間で109試合を行い、田部武雄が105盗塁を記録するなど善戦し、対戦成績は75勝33敗1分であった。7月16日に帰国し9月6日からは国内各地を転戦する。これが翌年以降の職業野球団の相次ぐ結成の契機となった。結成当初の対外試合も参照のこと。

1936年2月14日、第2次アメリカ遠征に出発。直前の2月9日から「巨人軍渡米送別試合兼金鯱軍結成記念試合」として名古屋金鯱軍と3試合を行う。これが現在のプロ野球組織に属する球団同士が行った初めての試合である。アメリカでは1次と同じくマイナーリーグクラスのチームを相手に10州を巡回して89日間で76試合を行い、対戦成績は42勝33敗1分であった。

戦前期
1936年には正力の働きかけもあって国内には巨人も含めて7チームの職業野球団が結成され、「日本職業野球連盟」も結成されていた。春には日本国内で初の職業野球リーグが開始されたが、巨人は上記のアメリカ遠征のため春季大会を欠場し夏季大会から参加。この夏季大会で計2勝5敗と惨敗を喫し、9月5日より群馬県館林市の茂林寺・分福球場で緊急キャンプを張った。この時の猛練習は「茂林寺の千本ノック」という名で知られる。1936年の秋季大会は6回の小規模リーグ戦の勝ち点制で開催され5回目のリーグ戦までリードしていたが6回目のリーグ戦で大阪タイガースに並ばれる。洲崎球場で3戦制の優勝決定戦を行い、2勝1敗でタイガースを下し公式戦初優勝球団に輝いた。1937年9月11日には後楽園球場が開場、以来実質的な本拠地として使用する。1939年には2度のマニラ遠征を行った。これ以降、戦前は11シーズンで8度の優勝を果たし、3度のノーヒットノーランを達成した沢村、42勝をあげたヴィクトル・スタルヒン、2度のノーヒットノーランを達成した中尾碩志、連続無失点記録62回、シーズン防御率0.73(日本記録)を記録した藤本英雄、職業野球契約選手第一号であった三原脩、日本プロ野球史上初の2桁本塁打や三冠王(1965年にプロ野球実行委員会で認定)を記録した中島治康らを擁して第1次黄金時代を築いた。この間プロ野球においても太平洋戦争による影響は避けがたく、召集によって中心選手の離脱も相次いだほか、1940年9月13日にはユニフォームのマークが「G」から「巨」に改められるなど巨人にもその影響は及んだ。遂には1944年11月10日に野球試合不可能として会社は存続するものの営業が中止され、球団は解散となった。11月13日には国の指導により日本野球連盟が改称していた日本野球報国会がプロ野球の一時休止声明を発表し戦前のプロ野球は終わった。

なお、1937年と1938年には2リーグ制導入以後スタートした今日の日本シリーズに相当する年間総合優勝決定戦(7戦4勝制)が行われ、この時は春と秋のリーグ戦がおのおの独立したシーズンと見なされているので、1937年春と1938年秋のリーグ優勝は通算のリーグ優勝として回数にカウントされている。ただし2年とも年間総合優勝決定戦で大阪タイガースに敗れたため日本一は逃している。

戦後期
1946年のリーグ戦再開より参加。1947年には読売新聞社が経営に当たる事となり[7]、球団名を東京読売巨人軍に改称、ニックネームを読売ジャイアンツとする。南海ホークスの台頭や、戦後の混乱で戦力確保への苦慮があり1947年に球団史上初めて勝率5割を切るなど再開から3シーズン続けて優勝を逃すが、監督・三原脩や「赤バット」の川上哲治、千葉茂、青田昇をはじめとする第1次黄金時代の選手が戦地から帰国しチームに復帰、また1948年オフには南海の別所毅彦を獲得するなどして徐々に戦力が充実。1リーグ最後の1949年には戦後初優勝を飾った。1947年6月23日に黒沢俊夫が死去、戦死した沢村とともにその背番号は日本プロ野球界初の永久欠番となった。

2リーグ分立
詳細は「プロ野球再編問題 (1949年)」を参照

1949年シーズンオフ、読売新聞社のライバルである毎日新聞が設立した毎日オリオンズのプロ野球参入に、のちにセントラル・リーグを結成するチームが反対。このことがきっかけとなり、読売ジャイアンツ・阪神タイガース・中日ドラゴンズ・松竹ロビンス・大洋ホエールズ・広島カープ・西日本パイレーツ・国鉄スワローズからなるセントラル・リーグ(セ・リーグ)と、阪急ブレーブス・南海ホークス・東急フライヤーズ・大映スターズ・毎日オリオンズ・西鉄クリッパース・近鉄パールスからなるパシフィック・リーグ(パ・リーグ)が分立することになった。

水原監督時代
1950年に復帰した水原茂を監督に据えて、リーグ分立1年目の同年こそ優勝を逃すものの、翌1951年からは同年に獲得した与那嶺要の活躍もあってリーグ3連覇、日本シリーズでは1リーグ時代からの宿敵南海を3年連続で降し日本シリーズ3連覇を達成。第2次黄金時代を築き上げた。1952年8月8日、広島11回戦の勝利で日本プロ野球史上初の公式戦通算1000勝を達成。1000勝時点の通算成績は1000勝518敗38分、勝率.659。1953年には初めての海外キャンプをサンタマリアで行う、この年は開幕から一度も2位に転落することなく優勝、シーズンを通しての1位独走優勝は球団史上唯一の記録である。

1954年は杉下茂擁する中日ドラゴンズに優勝を奪われ2位となるが、1955年にはリーグ優勝。日本シリーズでは南海ホークスとの対戦となり、1勝3敗からの3連勝して逆転日本一を達成する。この頃から第2期黄金時代を支えた千葉茂、川上哲治らに衰えが目立ち始め、水原は新旧交代をしなければならなくなった。

翌1956年もリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは水原と入れ替わりに巨人を退団した三原脩監督率いる西鉄ライオンズとの対決となる。以後3年連続して日本シリーズで対決となり、両者の戦いは「巌流島の決戦」とマスコミに喧伝された。いずれもライオンズに軍配が上がり、特に1958年の日本シリーズでは、第1戦から3連勝するも、第4戦から稲尾和久の力投などで4連敗を喫する。1959年もリーグ優勝は果たすが、日本シリーズでは南海ホークスの杉浦の力投の前にストレートの4連敗を喫する。

そして1960年は、三原が当時6年連続で最下位だった大洋ホエールズ監督に就任し、再び「巌流島の対決」と呼ばれる。大洋は三原の手腕によって巨人と優勝争いを演じ、ついに巨人を破ってリーグ優勝し、巨人は2位に終わった。シーズン終了後水原監督は勇退した。この間、1958年に長嶋茂雄、1959年に王貞治がともに大きな期待を背負って入団。長嶋は1年目から本塁打・打点の二冠、打率2位と活躍した。

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天覧試合
「天覧試合」も参照

1959年6月25日の阪神11回戦はプロ野球史上初めての天覧試合となった。この試合で王・長嶋がはじめて二人ともホームランを打ち(ONアベック弾第1号)長嶋のこの日2本目となるサヨナラホームランで勝利を収めた。

川上監督時代
1961年、川上哲治がヘッドコーチから昇格して監督に就任する。就任1年目ながら打率と本塁打の二冠を獲得した長嶋を中心に2位中日と1ゲーム差でリーグ優勝、日本シリーズでも南海を破って6年ぶりに日本一を達成。しかし1962年にはこの年から一本足打法を始めた王が本塁打王と打点王を獲得したが、長嶋の低迷と投手の駒不足もあって混戦のセ・リーグで勝率.515ながら4位、2リーグ分裂後初めてのBクラスに終わる。1963年には長嶋の復活と前年は2名に留まった二桁勝利投手を5名出すなど投手陣が安定してリーグ優勝、日本シリーズではそれまで勝つことのできなかった西鉄を初めて破り日本一になる。

1963年には王と長嶋で打撃三部門だけでなく打点と本塁打の2位までをも占め、1964年は王がシーズン記録となる55本塁打を記録するものの、3位に終わる。この頃から巨人の3・4番に固定された(両名の打順は流動的だった)王と長嶋はON砲と呼ばれ、実力・人気ともに特別な存在となっていた。また牧野茂、荒川博ら他球団出身のコーチが招かれ、1965年には金田正一が国鉄から10年選手制度を利用して移籍するなど1965年からの日本シリーズ9連覇へと続く素地が作られていく。

9年連続日本一
詳細は「V9 (読売ジャイアンツ)」を参照

1965年から1973年までは日本シリーズ9連覇を果たす。この時期は、一般的にV9(ブイナイン)と呼ばれる。この記録に次ぐ日本シリーズ連覇は巨人(1951年から)・西鉄(1956年から)・阪急(1975年から)・西武(1986年からと1990年から)の3連覇であり、他球団の追随を許さない大記録となっている。

1965年7月25日、中日11回戦の勝利で公式戦通算2000勝を達成、勝利投手は宮田征典、勝ち越した後の8.9回をリリーフしての勝利でありこの年に巨人首脳陣が時代に先駆けて行った投手分業制に従事した中であげた1勝だった。これ以来、宮田は8時半の男として一躍注目を集めることとなる。

この間、巨人はカラーテレビ普及による露出増加も相まって絶大な人気を博し、俗に当時の子供が好きなものを表した「巨人、大鵬、卵焼き」は流行語となった。また、同時期に連載が開始した漫画『巨人の星』も人気を集め、プロ野球選手、特に巨人軍の選手という職業は当時の子供たちの憧れの職業となった。

V9の間、最優秀選手を王は5回、長嶋は3回受賞している。また、川上監督や牧野ヘッドコーチのもとでロサンゼルス・ドジャースの戦術(スモールボール)を先進的に取り入れ、緻密な野球が実践されたのも効果的であった。王と長嶋以外にも、金田正一・城之内邦雄・堀内恒夫・高橋一三、渡辺秀武などの投手や、森昌彦捕手、土井正三・黒江透修内野手、柴田勲・末次利光・高田繁外野手など質の高い選手がそろっていた。

V9時代後半は長嶋など主力選手の高齢化と若手の台頭不足があり、前半よりも苦戦することが多くなった。そして1974年、中日に20年ぶりのリーグ優勝を許し、V10を逸す。この年を最後に川上監督が勇退、同時に長嶋・黒江・森も現役を引退した。OBの広岡達朗曰く、「V9時代途中あたりから、歯の浮くようなおべんちゃらを言うだけで、指導者の職責を果たしているといえるコーチがいなくなっていった。この頃から、選手を育てる、という方針はなくなりつつあった」とある。この後、巨人が連覇を果たす機会は少なくなっていく。

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第1次長嶋監督時代

1975年、前年に引退した長嶋茂雄が監督に就任。「クリーン・ベースボール」のキャッチフレーズを挙げたが自身の穴を埋められず、開幕6試合目で最下位に転落するとそのまま浮上することが出来ず、球団史上初の最下位を経験。全球団に負け越した上に9月には11連敗という球団史上最悪の連敗を喫し、10月15日には広島の胴上げを本拠地・後楽園で許した。その年のオフに日本ハムから張本勲、太平洋から加藤初をトレードで補強、翌1976年には前年の最下位から一転してリーグ優勝を果たす(同一監督での最下位となった翌年の優勝は史上初)。しかし、日本シリーズでは上田利治監督率いる阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れる。1977年は王貞治が通算本塁打数の世界新記録を樹立。チームも独走状態で2年連続でリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは阪急に1勝4敗で敗れた。

1978年は広岡達朗率いるヤクルトと優勝争いを繰り広げる。8月末に2位のヤクルトに4・5ゲーム差をつけ優勝は堅いと見られていたが、9月以降成績が急降下して、ヤクルトの前に屈した。このときの戦いぶりから長嶋茂雄に対して監督としての資質に、次第に疑問が投げかけられてゆくようになる。

そして1978年オフ、当時法政大学の江川卓の獲得を巡って、いわゆる江川事件が起きる。最終的には1979年3月に、江川がいったん阪神タイガースに入団し、その直後に小林繁と交換トレードをする事で決着がつく。だが、この江川事件はマスコミの総攻撃を受けることになった。

1979年は5月まで首位に立ったものの、6月以降は成績が次第に降下していき、Bクラス5位に終わる。一方で中畑清が3塁のレギュラーを獲得するなど若手の台頭も若干見られるようになる。同年オフに、青田昇がヘッドコーチに就任し、伊東での秋季キャンプでは松本(匡)、中畑、江川、西本聖、角三男らを猛練習で特訓した。後に「伊東キャンプ」として語られていく。

1980年は開幕早々ペナントレースから脱落し、長嶋に対する批判はこれまでにないほど高まっていった。シーズン後半から若手を起用して5割Aクラスを確保した。しかしながら、2リーグ分立後では球団史上初となる3年連続V逸であり、10月21日長嶋はチームの不振の責任を取って「男のケジメ」という言葉を残し辞任する。当日スポーツニッポンが「長島解任」とスクープ報道したように、読売新聞の幹部により事実上の解任だった。この動きに対してファンは激怒し、読売新聞・報知新聞(スポーツ報知)の購読打ち切りを行うファンが続出した。[8]。

王も現役を引退、巨人一筋22年の現役生活にピリオドを打った。

TVアニメ「新巨人の星」の舞台になっている。

藤田・王監督時代

第1次藤田監督時代
1981年、藤田元司が監督に就任。藤田元司監督、王貞治助監督、牧野茂ヘッドコーチによる「トロイカ体制」が誕生。江川卓、西本聖、定岡正二、加藤初ら先発4本柱で投手王国を形成し(江川20勝・西本18勝・定岡11勝・加藤12勝)、4年ぶりのリーグ制覇、日本シリーズで8年ぶりの日本一を達成する。なお、この年、江川は史上5人目の投手5冠王(最優秀防御率、最多勝、最多勝率、最多奪三振、最多完封)、西本は沢村賞、角三男が最優秀救援投手を獲得するなど、投手タイトル独占を達成、藤田監督の投手中心の守りの野球の成果が十分に発揮された。打者もルーキーの原辰徳が新人王を獲得、篠塚利夫が3割5分7厘の高打率をマークして阪神・藤田平と首位打者争いをするなど若手の台頭が目立った。

1982年にも0.5ゲーム差の2位となっている。

1983年にも、松本匡史が盗塁王(このときの盗塁76はセリーグ記録)、原辰徳が打点王(103打点)を獲得するなどしてリーグ優勝するが、日本シリーズでは西武との激闘の末、3勝4敗で敗れる。このときの日本シリーズは、サヨナラ勝ちが3度あり、日本シリーズ屈指の名勝負と言われている[9]。なお、テレビのプロ野球中継で現在までで最も視聴率が高かったのは第一次藤田監督時代(平均視聴率25.5%)だった[10]。

王監督時代
翌1984年から1988年までの5年間は王貞治が監督として指揮をとるが、1987年に1度優勝したのみで、同年の日本シリーズは1983年のリベンジ再びと期待されたが西武に2勝4敗で敗退。1988年からは本拠地を後楽園球場から東京ドームへ移転するが、吉村禎章やウォーレン・クロマティのリタイアが響いて2位に転落、優勝した中日に12ゲーム差をつけられる。王監督はこの年限りで引責辞任。

第2次藤田監督時代
1989年、藤田元司が監督に復帰。斎藤雅樹(20勝・防御率1.62)、桑田真澄(17勝・防御率2.60)、槇原寛己(12勝・防御率1.79)と三本柱を中心に投手王国を形成し、チームは2位の広島に9ゲーム差をつけリーグ優勝を達成する。、1989年の日本シリーズでは近鉄に3連敗を喫した後、4連勝し逆転で17回目の日本一に輝く。第3戦、近鉄の加藤哲郎が「シーズン中より楽に投げられました」と述べた主旨のヒーローインタビューとその後にインタビュアーの「(その年のパ・リーグ最下位の)ロッテよりも(迫力がなかった)?」との質問に、加藤が「そうですね」と答えたことから「巨人はロッテよりも弱い」と報道され、原・駒田ら巨人の選手たちはこの大逆転についてこの報道が奮起となったと述べている。

1990年、2年連続20勝した斎藤を筆頭に桑田・宮本和知(各14勝)、木田優夫(12勝)、香田勲男(11勝)と5人が二桁勝利を挙げ、完投数が70(130試合中)という先発投手中心のチームでペナントをリードし、吉村のプロ野球史上初となるサヨナラ優勝決定ホームランにより史上最速で2位広島とのゲーム差が22という圧倒的な強さで2年連続のリーグ優勝を果たす。しかし、雪辱を期して望んだ西武相手の日本シリーズでは、一転して先発投手陣が崩壊、攻守共に精彩を欠き0勝4敗で惨敗し、雪辱は成らなかった。

1991年は、投手陣の不調と打撃不振が響き、1979年以来12年ぶりのBクラス(4位)。シーズン終了後、近藤ヘッドコーチ・松原打撃コーチが、不振の責任を取る形で退団した。

1992年は序盤の不調が響き、5月には最下位に転落するが、大久保博元とロイド・モスビーの加入、石毛博史がリリーフエースとして頭角を現したこと等により、前半戦が終了する頃には首位に躍り出た。しかし、8月に入ると急激に失速し、終盤のヤクルト・阪神・広島との接戦の結果、最終的に2位となるも2年連続のV逸が決定。この年限りで藤田監督は勇退。後任には「監督浪人」中であった長嶋茂雄が13年ぶりに復帰。

第2次長嶋監督時代
1993年、長嶋監督が復帰、背番号は現役時代自らが付けていた「3」を2つ掛け合わせた「33」。同年のドラフト会議で注目されていた松井秀喜の交渉権を阪神・中日・ダイエーとの競合の末獲得。この松井がこの後、1990年代から2000年代前期にかけて、チームの顔としても、打撃の中心としても、精神的支柱としても重要な役割を果たした。また、現役大リーガーのジェシー・バーフィールドやヤクルトから長嶋一茂を獲得して3年ぶりのリーグ優勝を期待されたが、打撃陣の不振から3位に終わった。オフに、この年から導入されたフリーエージェント (FA) 制度によりFA宣言をした中日の落合博満を獲得する。ポジションが重複し、出場機会を奪われる事に危機感を持った駒田徳広が同様にFA宣言を行って横浜へ移籍する。その横浜からは自由契約になった屋鋪要を獲得した。

1994年、前半は投打ともに他のチームを圧倒したが、終盤最大10ゲーム差をつけていた2位中日に追いつかれ、シーズン最終戦(10月8日の対中日戦(ナゴヤ球場)、いわゆる「10.8決戦」)が優勝決定戦となった。史上初の同率チーム同士による最終試合での首位決戦という優勝決定戦は日本全国の注目を集め、各マスコミでも大きく報道。長嶋監督は「国民的行事」と称した。その試合を槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄の当時のエース「三本柱」の継投で、リーグ優勝を達成。1994年の日本シリーズでは、4勝2敗で西武を破り18回目の日本一に輝く。

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1995年は近鉄の阿波野秀幸を香田勲男との交換トレードで獲得。また広島の川口和久、ヤクルトの広澤克実をFAで獲得、また同じヤクルトを自由契約となったジャック・ハウエル、ミネソタ・ツインズのシェーン・マックを獲得したものの3位に終わった。逆転優勝を目指して長嶋監督が言った言葉「メークドラマ」は選手の奮起を促した。同年の最終戦で原が現役を引退。

1996年、シーズン中に補強したマリオ・ブリトーや松井の活躍等で、リーグ史上最大の11.5ゲーム差をはね返してリーグ優勝を成し遂げた。前年の雪辱を果たしたことから、「メークドラマ」とはこの年の大逆転を指すことが多い。1996年の日本シリーズではオリックスに3連敗から1勝した時点で「メークドラマ再び」と期待されたが、第5戦に敗れた。

1997年に西武から清原和博がFA権を行使して入団。松井とともに、ON(王・長嶋)以来の強打者コンビ「MK砲」として期待された。この際、清原に押し出されるように落合が「長嶋監督を悩ませることはできない」と異例の会見を開いて日本ハムに移籍。ロッテを自由契約となったエリック・ヒルマンを獲得したが、ヒルマンを含め主力選手に故障者が続出し夏場まで最下位に沈むなど大苦戦。最終的には4位でシーズンを終了。同年オフにはドラフト1順目で高橋由伸が入団。

1998年は前半は横浜や中日との首位争いを繰り広げるが、前半戦の勝ち頭趙成珉がオールスターゲームで右肘を故障。さらにバルビーノ・ガルベスの危険球退場でチームから離脱するなどアクシデントが響き3位に終わる。同年オフにはドラフトで上原浩治、二岡智宏が入団。

1999年、村田真一や広澤の離脱、後半戦は清原の故障によるシーズン離脱などもあったが、20勝を上げた上原や途中獲得したドミンゴ・マルティネスの活躍もあり2位となった。シーズンオフ、広澤が自由契約となり阪神に移籍。

2000年は、FA宣言をしていたダイエーの工藤公康と広島の江藤智、さらに阪神のダレル・メイを獲得。長嶋監督は、江藤に背番号33を譲り自らが現役時代に付けていた背番号3を25年ぶりに復活させた。松井が4番として定着、5番にマルティネス・清原、6番に高橋を擁した打線はシーズンで投打ともに他を圧倒して2位中日に8ゲーム差をつけてリーグ優勝。9月24日の優勝決定戦では、0-4で迎えた9回裏に江藤の満塁本塁打で同点に追いつき、直後に二岡がサヨナラ本塁打を放ち優勝を決めた。日本シリーズの相手は、長嶋と共にV9時代の主軸を担った王貞治が1995年から率いるダイエーで、「ON監督対決」として全国的に大いに盛り上がった。シリーズは、序盤こそ2連敗からのスタートだったが、その後一気に4連勝し本拠地東京ドームで19回目の日本一を達成した。

2001年は正捕手候補として阿部慎之助が入団。シーズン終盤までヤクルトと優勝を争ったが2位に終わる。同年限りで長嶋監督は勇退し、終身名誉監督に就任した。それと同時に槙原寛己、斎藤雅樹両投手そして村田真一捕手が引退した。監督の後任は、原ヘッドコーチ。

第1次原監督時代
2002年、原辰徳監督が就任。原監督と鹿取義隆ヘッドコーチは投手陣を立て直し、1年目でセ・リーグの全球団から勝ち越してのリーグ優勝を果たす。また、日本シリーズでも西武を相手に球団史上初の4連勝で20回目の日本一に輝いた。シーズンオフに松井秀喜がFA権を行使してニューヨーク・ヤンキースへ移籍。

2003年、松井に代わる大砲としてヤクルトからロベルト・ペタジーニを獲得。原監督は守備位置の問題を解決できず、鹿取コーチは一任されていた投手陣を整備できず3位に終わった。シーズン終盤には9連敗を喫するなど、優勝した阪神に15.5ゲーム差をつけられた。そして9月26日、原監督は責任を取り辞任した。辞任をするにあたってのセレモニーも行われなかった。[11]辞任に関して、人気のある原監督と渡邉恒雄オーナーとの確執がマスメディアに報じられ、それに失望した巨人ファンが離れる要因となり、この混乱が原因で川相昌弘がコーチ就任要請を辞退して中日に移籍した。

堀内監督時代
2004年からはV9時代のエース堀内恒夫が監督に就任。生え抜きの高橋由伸らに加え、前年までで近鉄との契約が終わったタフィ・ローズ、ダイエーから膝の靭帯を断裂した後出場のなかった小久保裕紀を獲得した。かねてより所属する清原和博、ペタジーニ、江藤智などのさまざまな球団で活躍した4番打者が1チームに顔をそろえるという超重量打線となった。長嶋終身名誉監督に「史上最強打線」と名付けられた打線は、事実この年に年間259本塁打のプロ野球新記録(それまでのプロ野球最高記録は1980年の近鉄の239本、セ・リーグ最高記録は1985年の阪神の219本であった)を樹立。しかし、防御率の低下により成績は前年と同じ3位だった。近鉄・オリックスの合併問題に端を発したプロ野球再編問題では、球団スカウトが行った明治大学・一場靖弘投手への不正な金銭授受の責任を取り渡邉恒雄がオーナー職を辞任した。

2005年、ポジション争いをやめさせ、打順を固定する事により1年を戦う打線として「不動明王打線」と名付けたが、高橋由伸、二岡智宏らが軒並み故障。この年から始まった「セ・パ交流戦」では4位(セ・リーグでは阪神に次いで2位)と好調だったものの、8年ぶりにBクラスの5位に終わった。また、原監督辞任騒動から巨人人気が一気に下降した影響により、観客動員数の減少やテレビ視聴率の低下が起こった。そのため日本テレビでも巨人戦中継の延長が中止されたりその他の放送局でも延長時間の短縮・中止や深夜枠での録画・ダイジェスト版放送に差し替えが起きた。この低迷によって2005年シーズン中からストーブリーグを見越した活動が表面化し、成績不振と怪我の重なったローズや清原が8月頃からチーム編成からはずれ、また初の他球団出身監督として阪神の星野仙一シニアディレクターの名前があがった。星野招聘の報道が表面化すると球団出身者のみが監督となってきた伝統を崩すことに一部OBやファンが反発。星野は9月10日に会見を開き、阪神に残留することを表明した。10月5日、堀内監督は成績不振の責任を取って任期を1年残し退任し、翌年からの新監督として原辰徳が2年ぶりに復帰することを正式に発表した。

第2次原監督時代
第1次では同じ時期に巨人で現役として活躍した選手が中心であったコーチ陣容を組んだ原監督だが、第2次では彼らに加えて他球団での豊富な経験のある人材を求めた。ヘッドコーチに近藤昭仁、守備走塁コーチに篠塚和典が復帰。投手コーチに尾花高夫を招聘、また1994年から2002年まで打撃コーチを務め、2003年より広島に戻っていた打撃コーチ・内田順三が復帰した。選手補強も積極的に行った。投手陣ではオリックスを自由契約となったジェレミー・パウエル、FA宣言した豊田清(西武)、野口茂樹(中日)を獲得した。野手ではロッテの李承燁を獲得。金銭トレードで過去ゴールデングラブ賞を4度受賞した小坂誠(同)を獲得した。一方で前年シーズン途中に既に構想から外れていた清原、ローズを自由契約で、豊田の人的補償で江藤を放出した。

2006年はチーム方針として2005年のワールドシリーズを制したシカゴ・ホワイトソックスに習い「スモール・ベースボール」を掲げた。開幕当初は首位を独走していたが、5月に始まったセ・パ交流戦の途中で主力選手に負傷者が続出したことで失速することとなった。これに対して西武を自由契約となり米国挑戦したものの契約を結べず帰国していた小関竜也を入団テストで、広島の木村拓也を交換トレードで、前年阪神を解雇されたもののメキシカンリーグで好成績を収めていたジョージ・アリアスを来日させそれぞれ獲得するなど建て直しを図ったが、6 - 7月には8連敗、10連敗、9連敗と立て続けに大型連敗を喫し、一時は最下位にまで転落した。最終的にチーム防御率は1点以上の改善があったものの野手陣の不調で4位に終わり、いずれも球団史上初の4年連続完全V逸と2年連続Bクラスとなった。

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この結果を重く見た球団はさらなる改革に着手した。首脳陣ではまず走塁面の強化に西武黄金期に三塁コーチャーとして活躍した伊原春樹を野手総合コーチとして招聘。篠塚守備走塁コーチを打撃コーチへ配置転換、伊勢孝夫スコアラーを打撃コーチ補佐として現場復帰させた。なお近藤ヘッドコーチが退任し、総括ディレクターに就任、それに伴って開幕直前に伊原がヘッドコーチを兼任することとなった。選手では仁志敏久を交換トレードで横浜に放出、小久保がFAでソフトバンクに移籍したが、ソフトバンクを戦力外となったベテランの大道典嘉を無償トレードで、オリックスの谷佳知を交換トレードで、日本ハムの小笠原道大をFAでそれぞれ獲得したほか、残留を前提としたFA交渉を打ち切られた横浜の門倉健も加入する。一方門倉の加入に伴って補償選手として工藤を放出することとなり、逆にソフトバンクから小久保の補償選手として吉武真太郎を獲得した。

2007年5月2日に行われたナゴヤドームの中日5回戦でプロ野球史上初となる球団通算5000勝を達成した。また2軍も5月29日のヤクルト戦でイースタンリーグ史上初の通算2000勝を達成した。これまで主にクリーンナップを打っていた高橋由伸を1番に、怪我で出遅れていた上原浩治を先発からクローザーとして起用するなどの大胆な配置転換を行った。これが成功し、前年のような大型連敗もなく安定した戦いを続けた。鬼門だった交流戦も2位でクリア。そして9月23日の横浜戦に勝利し、この年から導入されたクライマックスシリーズの出場権をセ・リーグ一番乗りで獲得。中日・阪神との三つ巴のデットヒートの末、優勝マジックナンバーが1となってむかえた10月2日のヤクルト戦、9回裏二死満塁から、清水隆行の遊撃内野安打と、宮本慎也の一塁悪送球の間に二塁走者が生還し、サヨナラ勝ちで5年ぶりのリーグ優勝を達成した。しかし、同年より導入されたクライマックスシリーズ第2ステージで、第1ステージで阪神を2連勝で破った中日に0勝3敗でストレート負けを喫し、史上初の「リーグ優勝しながら日本シリーズに出場できないチーム」となってしまった。このため恒例の銀座での優勝パレードも中止となった(巨人はこれまでリーグ優勝しても日本一になれなかった場合は優勝パレードを行ってこなかったが、日本シリーズ不出場による優勝パレード中止はこれが初である)。また、2軍も9月21日のヤクルト戦に勝利しイースタンリーグ優勝を飾ったが、9月29日に行われたファーム日本選手権では中日に2-7で敗れ、こちらも日本一はならなかった。

球団は前年に続き日本シリーズ終了後すぐ改革に着手。期待不足に終わったGGとジェレミー・パウエル、ファンからの人気も高かったデーモン・ホリンズの外国人3選手を自由契約とすると、ロッテを自由契約になった藤田宗一投手、横浜を自由契約となったマーク・クルーン投手、ヤクルトから自由契約となったセス・グライシンガー投手およびアレックス・ラミレスを獲得した。

2008年はオープン戦から主力選手の故障、大きく台頭した坂本勇人を除いた若手の伸び悩み等でなかなか満足な試合運びを出来ず、黒星を重ねていった。ペナントレース開幕直後もチームはオープン戦の不調を引きずり、開幕戦となる3月28日のヤクルト戦(神宮球場)から4月2日の中日戦(東京ドーム)まで、球団ワースト記録となる開幕5連敗を喫した。開幕戦で4番打者を務めた李承燁、昨年のクローザーから先発に復帰した上原浩治が共に不調で二軍降格するなど戦力が揃わず開幕ダッシュに失敗した。だが、交流戦あたりから調子を上げはじめ、若手の積極的な起用策が功を奏し、後半戦も順調に勝ち星を重ね、7連勝中の9月19日から首位阪神に3連勝、最終的に球団32年ぶりの12連勝を記録するなど猛追し、同率で迎えた10月8日の最終直接対決で勝利し単独首位に立ち、10日に接戦の末にセ・リーグ記録となる最大13ゲーム差[12]からの逆転優勝を果たした。11.5ゲーム差を逆転し「メークドラマ」と呼ばれた1996年の優勝時以上の大差を逆転したことから、マスコミ等は、「メークレジェンド」と呼んだ。

クライマックスシリーズでは、第二ステージで中日ドラゴンズと対戦、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分で勝ち抜けし、2002年以来のプロ野球日本選手権シリーズへの出場を決めるが、3勝4敗で西武ライオンズに敗れ日本一奪回は果たせなかった

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コメント

すごい気合が入った記事ですね。

投稿: オイルヒーター | 2009年9月29日 (火) 13時17分

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