文化・芸術

小説(しょうせつ)とは

小説(しょうせつ)とは、文学の一形式である。

小説とは、散文で作成された虚構の物語として定義される。 内容では、随想や批評、伝記、史書と対立するものであり、形式としては詩と対立するものである。

日本の小説

日本では、江戸時代に仮名草子、読本などはあったが、近代小説が誕生したのは明治
時代以降である。Novelの訳語に「小説」という、江戸時代に曲亭馬琴たちを中心にし
て自作を表現するために使われていた中国由来の言葉をあて、従来の勧善懲悪を斥け
、人情を映す文学作品として定義したのは坪内逍遙の『小説神髄』(1885-1886年)
である。その文学理論を実践したのが坪内逍遥の『当世書生気質』である。

もともと中国で国史・正史に対して、民間の俗話のことを「稗史小説」と呼んでいた。

純文学と大衆文学

小説は十九世紀以降純文学的傾向のものと大衆小説的傾向のものとに分類されること
が一般的となった。それ以前の小説は、セルバンテスやラブレーがそうであるように
芸術性と通俗性を区分することなくひとつの目標として追求することが多かったが、
小説の読者がひろがり、技法的な発達を見せるにしたがって、交通整理が行われるよ
うになってくる。各国の事情によって多少の差はあるが、現代文学では両者の傾向を
分けて考えるのが一般的である。日本の場合は純文学、大衆文学と呼ばれる。

区分が具体的になってくるのは明治末年ごろの文壇からで、大正期のメディアの発達
によってこれが具体化・固定化し、芥川賞・直木賞の制定によってひとつの度として
とらえらえるようになった。戦前から戦後のある時期までは、純文学は芸術性を指向
し、大衆文学は通俗性・娯楽性を指向するものであるという区分が明確で、「自分の
ために書く小説、読者のために書く小説」といった言いかたをされることもあった。
この時期は純文学の主流は私小説、大衆文学では時代小説であり、それを書く作家が
固定していたのも特徴である。ただし当時から一人の作家について通俗的作品、芸術
的作品と分類されることもあり、単純ではない。

現在では純文学、大衆文学の境界はあいまいで、双方の作品を発表する作家、一方か
ら他方へと移行する作家、自作について特段の区分を求めない作家が多くなってきて
いる。実態としては純文学・大衆文学の区別は掲載誌によって行うことが一般的である。

文学賞では、芥川賞は純文学、直木賞は大衆文学の賞であり、受賞作家・作品をみれば
ある程度捉えられていた。しかし、芥川賞作家が娯楽作品を執筆することもあり(たと
えば奥泉光、宇能鴻一郎)、作家名で判断することはできなくなっている。純文学作家
の三島由紀夫も大衆文学を書いている。逆に大衆文学の作家が純文学的作品を書く例も
ある(筒井康隆など)。また、最近では芥川賞=純文学、直木賞=大衆文学と単純に言
えない例も出てきた。第二次世界大戦後、中間小説という分類をおくこともあったが、
現在ではほとんど死語であろう。

純文学小説の堕落と見る向きもあるが、19世紀的な芸術/娯楽という二項対立的分類が
、現代文学の状況を正確に把握しきれなくなったためではないかという指摘もある。海
外でもチャンドラーやグリーンのように通俗性を保ちつつ高度の芸術性を発揮する小説
作品が少なくない。

内容・分野によれば、通俗恋愛小説、冒険小説、推理小説、時代小説、通俗歴史小説、
サイエンス・フィクション、ファンタジー、ホラー小説、武侠小説などは大衆文学とす
ることが一般的であるが、これらの性格を持ちながら純文学とされる作品は戦前から少
なくない。

時代区分による分類

歴史学のように政体の変遷に注目することが必ずしも相応しいとは考えられないが、目
安にされることが多い。又、以下のように、上代・中古・中世・近世・近現代が行われ
ているが、研究者によって異論もあり、中古を設定しない場合もある。近代と現代を分
離するか否かについても諸説あり、定まっていない。

丸谷才一は勅撰集により日本文学史の歴史区分を行うことを提示した。

上代文学

奈良時代まで。中国大陸から朝鮮半島を経由して漢字が輸入され、漢文と、自分たちの
話し言葉に漢字を当てはめた万葉仮名が使われるようになった。『古事記』(712年)
『日本書紀』(720年)のような史書や、『万葉集』のような歌集が生まれた。

中古文学

平安時代。漢詩・漢文が引き続き栄えるとともに、初の勅撰和歌集である古今和歌集が
編纂され、和歌が漢詩と対等の位置を占めた。当時の公式文書は漢文であったが、平仮
名の和文による表現が盛んにはじまり、紀貫之の『土佐日記』が書かれたのに続き、清
少納言の随筆『枕草子』、紫式部の『源氏物語』など古典文学の代表作と言える作品が
著された。

中世文学

鎌倉時代から安土桃山時代まで。藤原定家らによって華麗な技巧に特徴がある『新古今
和歌集』が編まれた。また、現代日本語の直系の祖先と言える和漢混淆文によって多く
の作品が書かれた。鴨長明の『方丈記』、吉田兼好の『徒然草』などがこれにあたる。
作者不詳のものとして『平家物語』が挙げられる。また、猿楽の発達が見られた。

近世文学

江戸時代。お伽草子の流れを汲み、仮名草子や井原西鶴らの浮世草子がうまれた。また
、歌舞伎や浄瑠璃が興り人気を博した。俳諧が盛んになり、松尾芭蕉、小林一茶といっ
た人々が活躍した。

近現代文学

戦前と戦後。開国とともに西欧の文明が流入し文明開化が起こると、日本文学も大きな
影響を受けた。西欧近代小説の理念が輸入され、坪内逍遥の『小説神髄』、二葉亭四迷
の『小説総論』『浮雲』などによって実質的に近代の日本文学が出発した。いわゆる「
文学」という概念は、この頃に生まれた。なお、近代と現代を分離し、戦前の文学を「
近代文学」、戦後の文学を「現代文学」として分ける場合もある。

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韓国伊大氏神社について

韓国伊大氏神社

『延喜式』神名帳をひらくと、そこには興味をそそられる神社名がずい分とみられる。そして、それらのなかには、いまだに検討が不十分のため実体が明らかでないものや、さらに考察が必要と思われる神社もみられる。  ここでとりあげようとしている韓国伊大(太)氏神社もそうした神社のひとつに他ならない。  韓国伊大氏神社は、その名称のユニークさに加えて、分布にも特異性をみせている。まず、その呼称であるが、一般的には「カラクニイタテ」神社とよばれる。そして、その分布はというと、神名帳にみえる六社はすべて出雲国に鎮座している。しかも、その内分けをみると、出雲国の九郡中、意宇郡と出雲郡とに三社ずつ分布がみられる。つまり、韓国伊大氏神社は、出雲国にのみ姿をみせる神社であり、しかも、出雲国のなかでも、国衛が置かれた東部の意宇郡と杵築大社(出雲大社)が鎮座している西部の出雲郡のみにみられるというように分布にいちじるしいかたよりをみせている。 さらに、韓国伊大氏神社は、その由来についても不明瞭な点が多い。一般的には、スサノオ神の御子神である五十猛神と関連させてとらえ、この神を祀る神社といわれている。こうした見解は、天保十四年(1843)に千家俊信によって唱えられたものであり、『日本書紀』のスサノオ神の出雲降りについて記した一書をふまえたものである。すなわち、スサノオ神が、韓国(新羅)を経由して出雲へ降るさいに同行した神が御子神の五十猛神であり、このことを前提として、千家俊信は、「伊太氏は、氏は気とかよひて五十猛と同じ。忌部正通が神代口訣に、肥前国西南沖五十猛島」、又貝原好古が考に、筑前国御笠都筑紫神社は五十猛神といへり」と述べており、さらに、韓国伊大氏神社および五十猛神に関連あるものとして、「又帳に、紀伊国名草郡伊達神社名神大あり。是と同神なるべし。又同郡に伊太祁曽神社名神大月次相甞新甞あり。又大隅国囎唹郡韓国宇豆峯神社あり。是韓国てふ言を冠らせたる例也。又仁多郡伊我多気神社も此神を拝祭れり」として類例を提示している。すなわち、千家俊信によれば、伊大(太)氏は五十猛が転託したものであり、韓国とあるのは五十猛神がスサノオ神に伴われて朝鮮半島を経由して日本へ渡ってきたことによるということになる。こうした千家俊信の見解はつとに江戸時代末期にのべられたものであるが以後、さほど疑問をさしはさまれることなく受け継がれ、今日ではほとんど定説といってもよいほどの位置を占めるにいたっている。

韓国宇豆峯神社

 もっとも、こうした説に対してまったく異議がとなえられなかったわけではない。たとえば、志賀剛氏は、千家俊信の説にとらわれない独白の見解を展開されている。志賀氏は、イタテはイタチの変化したものであり、さらにイタチはもともとユタテであったと考えられた。すなわち、ユタテ→イタチ→イタテと変わったというのである。そして、そもそものユタテは「湯立」であり、ここからユタテの神というのは湯を立てる神であると解釈された。したがって、イタテの神とは湯立神に他ならないということであり、さらに、イタテに「韓国」が冠されているのは、遠来の神には新鮮な霊カがあるとする古代の信仰からきたものであろうとされた。  また、こうした志賀説を批判して自説を展開したものとして石塚俊氏の見解をあげることもできる。石塚氏はまず、播磨国飾磨郡の射楯兵主神社を引き合いに出され、ここに祭られている射楯神と兵主神のうち、射楯神は『播磨国風土記』の因達里に記載がみられる「伊太氏之神」であるとされた。そして、因達里の説話が、神功皇后が韓国平定をおこなったさいにその御船の上に鎮座したのが伊太氏之神である、という内容であることに注目して、「韓国」を頭に冠しないイタテ神の場合にもすでに韓国との関係がみられると指摘された。その上で、「由来、漢土・漢土の神を迎え祀る例は多く、そもそも『古事記』に「韓神」「曽富理神」と、明瞭な韓神の名がある」とのべられ、こうした韓神・曽富理神を「帰化人によって招来された「今来の神」であった」と把握れている。これらの考察を基に石塚氏は、出雲国の韓国伊大氏神社も今来の神の信仰と無関係ではないとして、「韓国」は文字通り韓国そのもののことをさし、「これを冠する伊太氏の神は、だから、あたかもかの八幡神が八鹿の幡によって降臨ましましたというがごとくに、もしかしたら文字通り「射立」であり、矢になって降臨ましました神ではなかったろうか」と考えられた。石塚氏の見解は、先の志賀氏が伊大氏神に冠せられた「韓国」を遠来の神に新鮮な霊力ありとした古代の信仰からくるとされたことをさらに一歩進められて、渡来人によって招来された今来の神の信仰と関係があるとされた点において志賀説を批判的に継承したものといえよう。ただ、志賀氏が提唱されたイタテが本来、ユタテ(湯立)であるとする見解に対しては、石塚氏は疑問を発せられている。志賀氏の湯立説の根拠のひとつは、ユタテ→イタチ→イタテという音の変化にあるが、もうひとつ『延書式』の神名帳にみられる伊達神社の多くが泉井に依存する立地になっているということも壷要な根拠になっている。この泉井に依存する立地条件に伊達神社が鎮座しているという点については、石塚氏も批判しているようにひとえに伊達神社のみに限ってよいものかどうか問題があると考えられる。むしろ、神社と清らかな泉井との関係は一般的ととらえる方が自然ではなかろうか。また、音の変化についても、ユタテ→イタチ→イタチと変わる可能性はもちろん否定することはできないかもしれないが、その一方では、そのように変化する必然性ということを考えるならば、それほど強いものがあるともいえないのではなかろうか。こうした点を考え合わせると、志賀説は興味深い見解ではあるがにわかに肯定することはできないように思われる。また、石塚説の場合についても、今来の神とされる韓神・曽富理神を例に引かれ、ここから韓国伊大氏神社も今来の神の信仰と関係があるとすることは論理に飛躍があると思われる。伊

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大氏神が韓国と関係のある神ということと、韓神や曽富理)神と同じ性格をもっているということは別次元で考えなければならないことであろう。石塚説はこの点でなお問題を残していると考えられる。  以上、通説的な見解とそれに対する異説とをとりあげてみた。通説的な理解は、韓国伊大氏神社の「イタチ」と五十猛神の「イタケル」とが音の点で類似していること、そして、記紀神話のなかにおいて五十猛神と朝鮮との間に関係がみられることが主要な根拠となっていると思われる。しかしながら、これらの根拠を再度みなおすならば、さほど確たるものとはいいがたいように思える。すなわち、音の類似性についていうならば、主観的な判断が多く含まれており、このことを主要な根拠とするのは客観性に欠けているといえよう。また、神話にみられる交流についても、これをそのまま主たる根拠とするのは問題があろう。したがって、通説的な見解といわれるものではあるが、その実態を追求すると意外にも根拠が弱い不確かなものといえる。また、その通説的な見解に対して出された志賀氏、石塚氏の両説についてもやはり問題が残されており、すなおに従いがたいように思われる。 こうした点をふまえて、かつてわたくしも考えをのべたことがある。しかし、紙数の都合などもあってふれ足りなかったところもあった。また、小文に対して思いがけずも上田正昭氏がとりあげて下さり、その問題点についても指摘して下された。そこで本稿においては、上田氏が指摘された問題点に留意して再度、韓国伊大氏神社についてその創建時期および創建の背景を中心に考えてみることにしたい。

二 旧稿の要旨と問題点

 まずはじめに、かつてのべたことを整理し、それについての問題点を抽出することにする。旧稿においては、韓国伊大氏神社と五十猛神とを関係づけてとらえる通説的理解を論拠に乏しいものとしてしりぞけ、『出雲国風土記』と『延書式』神名帳を手がかりとして検討を加えた。『延書式』は知られるように延長五年(927)に成立したものであり、これによって少なくとも10世紀前半の段階における神社の様相を把捉することが可能と考えられる。また、『出雲国風土記』は天平五年(733)に出雲国において勘造されたものであり、ここには郡ごとに神社がまとめて記載されている。さらに、その神社の記載は神祇官帳に登録されているものとそうでないものとに区別されている。これらから明らかなように、出雲国においては、『出雲国風土記』と『延喜式』神名帳を比較的に用いることによって、8世紀前半と10世紀前半の両時期における神社の様相を追求することが可能である。

 そこで、韓国伊大氏社の分布を具体的にみるならば、『延書式』神名帳の出雲国意宇郡の条に、
 ①玉作湯神社  同社坐韓国伊太氏神社
 ②揖夜神社   同社坐韓国伊大氏神社
 ③佐久多神社  同社坐韓国伊大氏神社
の三社がみられ、また同じく出雲郡条にも、
 ④阿須伎神社  同社神韓国伊太氏神社
 ⑤出雲神社   同社神韓国伊大氏神社
 ⑥曽枳能夜神社 同社神韓国伊大氏奉神社

 というように三社の存在を確認することができる。これらの合わせて六社の韓国伊大太氏神社を通覧して、まず目につくことは、これらの神社の表記が「大」を用いる場合と「太」を使用する場合とがある、ということである。本稿では、『新訂増補国史大系』の『延喜式』の表記によったが、こうした表記の相違は写本の過程において生じたものと考えられる。また、出憲の曽枳能夜神社の関連でみられる韓国伊大氏奉神社の「奉」については衍字とみなしてさしっかえないであろう。同じく出雲郡の阿須伎神社と関連してみられる同社神韓国伊太氏神社についても社名の頭に神の字が冠せられているが、これも神名などの上に神をつける例があるので、さほど特別視することはないと思われる。

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 第一表 韓国伊大氏神社の分布
 『出雲国風土記』  『延喜式』神名帳
  〔意宇郡〕
 ①玉作湯社→   →玉作湯神社
  由宇社→  ? →同社坐韓国伊太氏神社
 ②伊布夜社→   →揖夜神社
  伊布夜社→   →同社坐韓国伊大氏神社
 ③佐久多社→   →佐久多神社
  佐久多社→ ? →同社坐韓国伊大氏神社

  〔出雲郡〕
 ④阿受枳社→   →阿須伎神社
  阿受枳社→   →同社神韓国伊太氏神社
 ⑤出雲社→    →出雲神社
  御魂社→    →同社韓国伊大氏神社
 ⑥曽伎乃夜社→  →曽枳能夜神社
  曽伎乃夜社→  →同社韓国伊大氏奉神社
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 このように分布がみられる韓国伊大氏神社であるが、またこれらの神社は、『出雲国風土記』の段階においても、それぞれに相当する神社を比定もしくは推定することが可能である。第一表は、秋本吉郎氏の説によって、『出雲国風土記』に記載されている神社と『廷書式』の神名帳にみられる韓国伊大氏神社とを対応させたものである。この表から明らかなように、『出雲国風土記』には、韓国伊大氏神社と称する神社は一社も存在していない。つまり、『出雲国風土記』が作成された天平五年(733)の段階では、韓国伊大氏神社という名称の神社はいまだ成立していなかったと考えれる。それが、時を経て延長五年(927)に成立した『延喜式』には、六社の韓国伊大氏神社の姿がみられるのである。このことから、韓国伊大氏神社は8世紀の前半から10世紀の前半の間に創建された神社と規定することができよう。つまり、『出雲国風土記』の段階では、まったく異なった名称であった神社が、そののち韓国伊大氏神社という社名に変化したということができる。 こうした成立期に関する問題は、韓国伊大氏神社の性格を考える上で重要な点であると思われるが、従来、この神社について論及されるさいには社名の読みに考察のウェイトがおかれ、成立期に関してはほとんど注意がはらわれていないようにみうけられる。社名の読みについての検討が重要であることは十分に理解できるが、いままでのような読みにばかり重点をおいたアプローチだけでは限界があることも明らかである。韓国伊大氏神社の原像を追求するさいには、社名の面からの考察ばかりではなく、それに加えてこの神社の成立時期への配慮もまた必要と考えられる。 これらのことをふまえて旧稿では、創建期の状況という視点を導入して韓国伊大氏神社をみてみた。そのさい、すでに指摘したように、創建の時期については、『出雲国風土記』が成立した天平五年(733)から『延書式』が完成した延長五年(927)の間と考えられること、また、韓国伊大氏神社の「韓国」については、やはり文字通り韓国、すなわち朝鮮半島と考えるのが妥当であるということの二つの点を前提として検討を加えた。この二つの点を考慮して、8世紀前半から10世紀前半までの間を朝鮮半島との関係を視野にいれてとらえるならば、そこに対新羅関係の悪化という外交情勢が浮かびあがってくる。新羅との関係を概観すると、8世紀から9世紀にかけて、その関係は恒常的に悪化の様相をみせている。こうした状況に対して、日本側もさまざまな対応をとっているが、それらの中でも『日本三代実録』貞観九年(867)五月二六日条にみえる記事はとりわけ興味ぶかい。

 造八幅四天王像五鋪。各一鋪下伯耆。出雲。石見。隱岐。長門等國。下知國司曰。彼國地在西極。堺近新羅。警之謀。當異他國。宜歸命尊像。勤誠修法。調伏賊心。消却變。仍須點擇地勢高敞瞼瞰賊境之道場。若素无道塲。新擇善地。建立仁祠。安置尊像。請國分寺及部内練行精進僧四口。各當像前依勝王經四天王護國品。晝轉經卷。夜誦神咒。春秋二時別一七日。清淨堅固。依法薫修。

 これがその内容であり、記事自体は四王寺の建立を命じたものである。この四王寺建立の目的はいうまでもなく新羅への備えという点にある。そして、この記事のなかで建立を命じられた国々のひとつに出雲国が入っていることはみのがせない。これら四王寺建立を命じられた諸国のうち、新羅にもっとも近接しているのは隠岐国となろうが、隠岐は日本海に浮かぶ島であり、国家側の意識からいえば、むしろ、出雲国が新羅と墳を接している国とみなされていたのではあるまいか。 こうした対新羅関係の悪化という時期が、おりしも韓国伊大氏神社の創建推定期と重なるということは決して偶然とはいえないと思われる。むしろ、こうしたことを考慮するならば、この「韓国」という語句を頭に冠する韓国伊大氏神社の由来が、これらの状況と無関係ではないと考える方がより自然ではなかろうか。つまり、韓国伊大氏神社は、対新羅関係の悪化という事態のなかで、国家によって新羅と境界を接していると認識されていたであろうと考えられる出雲国に創建された神社である、と把握することが可能である。 それでは、具体的に韓国伊大氏神社とはどのような神社であったのかというと、「韓国」は文字通り韓国であり、新羅のことを指しているとしてよいであろう。とするならば、「伊大氏」の解釈が問題になってこよう。この点については、『延喜式』の神名帳のなかに播磨国飾磨郡のものとして、射楯兵主神社がみられることが参考となろう。この射楯兵主神社は、『延喜式』神名帳において、二座の扱いとなっていることから、射楯神と兵主神とを祭っていると考えられる。この射楯神については、『播磨国風土記』の飾磨郡因達里の条に、「伊太代之神」として姿をみることができる。「伊太代之神」は、神功皇后が韓国平定のため渡海しようとしたさいに船前に鎮座したとされる神である。これらのことをふまえると、「伊大氏」「伊太代」は、「射楯」と考えることができ、韓国、すなわち新羅に対する防備を象徴していると把握することが可能である。つまり、韓国伊大氏神社は、新羅から出雲国を、ひいては日本を守るために建立された神社ということができる。そして、このことは、四王寺を建立することによって仏教的に国家を鎮護すると共に、韓国伊大氏神社を創建して神祇的にも国家を守護しようとしたものに他ならないと考えられる。いいかえるならば、新羅からの脅威に対して、国家は仏教的な面からと神祇的な面からとの双方の面からの安全対策をおこなったわけであり、その神祇的な面からの対策が出雲国における韓国伊大氏神社の創建ということになる。 このようにとらえるならば、韓国伊大氏神社の創建期に関しても、四天王寺の建立が命じられた貞観九年(867)のあたりが考えられてしかるべきであろう。すなわち、韓国伊大氏神社の創建については明確に時期を限定することは困難ではあるが、9世紀後半をその時期として設定してよいのではあるまいか。 以上が、旧稿の要旨であるが、これに対して、先にのべたように上田正昭氏がとりあげられ、三点にわたって問点を出された。 上田氏があげられた第一の問題点は、対新羅関係の悪化という点である。すなわち、関係の悪化という点についてみるならば、貞観九年(867)のあたりの時期のみではなく、さらに以前から悪化がみられ、8世紀のなかばにはすでに「征韓」論や、「征韓」の軍事計画が具体化しており、9世紀後半よりも深刻であった、というのである。したがって、韓国伊大氏神社の創建についても、対新羅関係の悪化という点を強調するのであれば、8世紀の日羅関係をどう把握するのかが問題となるということである。たしかに、8世紀の対新羅関係の悪化については、しばしば指摘されるところであり、天平五年(733)に成立した『出雲国風土記』の性格においても、こうした対新羅関係の悪化を背景とした軍防的要素がみられるという指摘もみられる。したがって、8世紀以後の日羅関係については、再度、検討する必要があると思われる。 第二の問題点として上田氏が指摘されたのは、「同社坐」とか「同社」・「同社神」とかとして『延喜式』神名帳にみられる韓国伊大氏神社を四王寺の建立と同類視することはできない、という点である。すなわち、「同社」の意味は、相殿神あるいは境内社的なものを指すのであって主神としての社ではない、とするのが上田氏の理解であり、韓国伊大氏神は「客神」の社としての要素が強いというのである。したがって、質的な意味で四王寺と同レベルで扱うことはできないというわけである。『延喜式』の神名帳にみえる韓国伊大氏神社は、たしかに、同社坐韓国伊太氏神社・同社坐韓国伊大氏神社・同社坐韓国伊大氏神社(以上、意宇郡)、同社神韓国伊太氏神社・同社韓国伊大氏神社・同社韓国伊大氏神社(以上、出雲郡)というように、神社名のはじめに、「同社坐」・「同社」・「同社神」といったいい 方がついており、このことをどのようにとらえるかは、ひとつの問題点といえるであろう。 上田氏の第三の指摘は、「伊大氏」という社名についての問題点である。この「伊大氏」を「射楯」とする場合、そこに防備の意味もあったであろうが、それを新羅に対する防備と理解することができるかどうかは疑問とされている。上田氏は、播磨国の射楯兵主神社の「射楯」は渡来系の兵主神の神格にちなむ「射楯」であって兵主神の武徳によっての「射楯」であるとされている。さらに、″まれぴと″の神の祭祀には、今来の神の霊威の感得が前提になった場合が多い、とのべられ、韓国伊大氏神とその社のまつりは、出雲在地の人びとにとっての「客神」であり、その「客神」を奉じる渡来系の人びととの垂層のなかでの「同社の神」であった、と指摘されている。  これら三点にわたる上田氏の指摘は韓国伊大氏神社を考える上でいずれも重要な視点であるといえる。以下、節をあらためて、これらについて考えてみることにしたい。

三 8世紀および9世紀の日本と新羅

 ここでは、上田氏が指摘された対新羅関係の悪化は720年代からみられる、という点を考慮して、8世紀および9世紀の日羅関係について検討することにする。次の頁にあげたのは、720年以降の8世紀・9世紀間の日羅関係の略年表である。この略年表からも理解できるように、8世紀から9世紀にかけて日羅関係は緊張状態の連続といえる。こうした緊張の2世紀ではあるが、8世紀と9世紀の状況をひとつひとつみていくと、そこに質的な相違をみい出すことができるように思われる。それは何かというと、8世紀の場合、緊張のなかにもとにかくまだ国家間の交流が中心になっているのに対して、9世紀になると、海賊をはじめとする私的な交渉が目立つようになるということである。また、新羅の動向に対する日本側の政策に関しても8世紀と9世紀とでは相違があるように思われる。

 8世紀・9世紀の日羅関係
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養老五年(721)  新羅遣朝使、太上天皇の死のため筑紫から帰還
  六年(722)  遣新羅使を任ず
           新羅、日本の賊の侵入に備え毛伐都城を築く
  七年(723)  新羅使来朝
神亀一年(724)  遣新羅使を任ず
  二年(725)  遣新羅便帰国
  三年(726)  新羅使来朝
天平三年(731)  日本の兵船、新羅の東辺を襲う
  四年(732)  遣新羅使を任ず
           新羅使来朝
  六年(734)  新羅便、太宰府に来朝
  七年(735)  新羅の国号を王城国と改称したことを理由に新羅使を追却
  八年(736)  遣新羅使を任ず
           新羅、遣新羅使を受けつけず
  九年(737)  新羅の失礼に対して官人に意見を求める
           伊勢神宮・大神神社・筑紫の住吉社および八幡社・香椎廟に新薙無礼の状を奉幣・奏上

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  十年(738)  新羅使を大事府から追却
 十二年(740)  遺新羅使を任ず
 十四年(742)  新羅使、大事府に来朝、新都久爾宮の未完成を理由に入京させず
 十五年(742)  新羅便、失礼により追却
天平勝宝四年(752)遣新羅便を任ず
           新羅便、大事府に来朝
    五年(753)唐朝における朝賀で遣唐使と新羅使が席次を争い、遣唐使が上席を占める
           遣羅使を任ず              遣新羅使、無礼により新羅王引見せず
天平宝字三年(759)征新羅のため太宰府に行軍式を造らせる              香椎廟に征新確の状を奏上
           新羅より帰化の情願者を放還
           征新確のため船500艘の営造を命ず(北陸道89艘・山陰道145艘・山陽道161艘・南海道105艘〉
    四年(760)帰化新羅人131人を武蔵国へ移す
           新羅使来朝、身分の軽さを理由に追却
天平宝字五年(761)征新羅のため美濃・武蔵両国の少年に新羅語を習わせる
    六年(762)征新羅のため香椎廟に奉幣
    七年(763)新羅便来朝
神護景雲三年(769)新羅使、対馬に来朝
宝亀  五年(774)新羅便、太宰府に来朝、問答ののち追却
           新羅人の漂着は追却させる
    十年(779)遣新羅使を任ず
           新羅使来朝の由を問う
   十一年(780)新羅使、万物を献ず
延暦  六年(787)日本王、新羅に万波息笛を求める
   十八年(799)遣新羅使を任ず
           遣新羅便を停止
   二一年(802)新羅の均貞を日本の質としようとするが均貞は拒否
延暦 二二年(803)新羅、日本と交聘
   二三年(804)日本国使、新羅に黄金300両を献上
大同  一年(806)日本国使、新羅朝元殿で引見
    二年(807)筑前国金光明寺に四天王像をもどす
    三年(808)日本国使、新確に来泊
    四年(809)大野城鼓峯で四天王法を修す
弘仁  二年(811)新羅人、大字府に漂着
    三年(812)新羅の海賊船、対馬に漂着
           新羅人の清漢波ら漂着
           新確人の劉清らを追却
    四年(813)新羅人、肥前国小値賀島に来着し島民を殺傷
    五年(814)新羅の王子来朝の時は、隣好の志があっても追却すべしとする
           新羅の商人、長門に漂着
           新羅人、博多津に漂着
    七年(816)新羅人の清右珍ら180人帰化
    八年(817)新羅人43人帰化
           新羅人143人帰化
   十一年(820)新羅人、献物
   十三年(822)新羅人40人帰化
天長  一年(824)新羅人、能登に漂着し琴などを献上
           新確人54人を陸奥に安置し口分田を与える
    八年(831)新羅人の交関文を検領
    十年(833)新羅人を左京に貫付
承和  一年(834)新羅人、太宰府に漂着、百姓が妓らを襲う
    二年(835)新羅の商人、壱岐に来着、島民に要害を警備させる
承和  三年(836)遣唐使船が斬羅に漂着したため新羅に使節を派遣
    七年(840)新羅人の張宝高、万物を献ず、太宰府より追却
    八年(841)新羅人の張宝高、使者を太宰府に派遣するが追却
    九年(842)新羅人の商人の李少貞ら筑紫に漂者、食料を与えて追却
           太宰大弐藤原衛、新羅人の来朝禁止など4条起請を上奏
   十二年(845)太宰府、新羅人の来者を報着を報告
嘉祥  一年(848)能登国、新羅使の王文矩らの来着を報告
    二年(849)対馬の史生を廃し弩師を置く
斉衡  三年(856)新羅人30人、太宰府に来着、食料を与えて追却
貞観  五牛(863)新確の沙門3人、博多津に来着、唐船に乗せて追却
           新羅人、因幡国に来着
    六年(864)前年に石見国へ漂着した新羅人を追却
           日本国使、新羅に至る
    八年(866)肥前国大領、新羅の対馬襲撃を太宰府に奏上
           新羅兵に備え能登・因幡・伯者・出雲・石見・隠岐・長門の7国と太宰府に命じて諸神に奉幣して鎮護の殊効を祈らせると共に兵の試練を命じる
    九年(867)新羅調伏のため伯香・出雲・石見・隠岐・長門の5国に四天王像を安置させる
           豊前国宇佐八幡宮および北陸道諸国に仏像をわかつ
   十一年(869)隠岐国の史生を廃し弩師を置く
           新羅の海賊、豊前国の絹綿を椋奪する
           新羅の海賊の豊前団の貢調使襲撃の件で太宰府を戒める
           長門団に弩師を置く
           新鹿の侵椋に備え太宰府に諸国の浮囚を徴発す
   十二年(870)卜部乙屎麻呂、新羅の対馬襲撃計画を報告、これによって因幡・伯者・出雲・石見・隠岐らの団に警備を命じる
           太宰府管内の新羅人を陸奥国へ移す
           出雲団の史生を1人廃し弩師を置く
           太宰府より新羅人7人が逃亡
貞観 十五年(873)武蔵国の新羅人が逃亡
           長門国の四王院の沙弥数勝・教林を得度させる
           対馬に漂着し鴻臚館に禁固していた新羅人を放還
   十六年(874)新羅人、対馬に漂着
元慶  二年(878)日本国使、新羅に至る
    三年(879)武蔵国の新羅人が逃亡
    四年(880)隠岐国の兵庫が振動、因幡・伯者・出雲・隠岐の諸国に警備を命じる
    六年(882)日本国使、新羅に黄金明珠を進上
仁和  一年(885)肥後国天草軍に来着した新羅使を追却
           北陸道諸国・長門図・大宰府に警備を命じる
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 まず、8世紀についてであるが、天平宝字三年(759)の場合のように、新羅征討を実際に計画した事例もないわけではないが、一般的にはこうした具体的な軍事行動はほとんどみられない。日本側の対応としては、新羅使を拒否して追い返すことと香椎廟などの神社に新羅の無礼を至することがあげられる。それに対して、9世紀になると、北陸道・山陰道・西海道の諸国に対して実際に警備を命じることが多くなる。また、具体的に弩師を設置して軍備を強化しようとする例もみられるようになる。精神的な面での対応にも変化がみられる。それは、四天王信仰による新羅調伏の動きがでてくることである。大同二年(807)の筑前国の金光明寺に四天王像をもどした例などはそのはじめであり、大同四年(809)には大野城鼓峯で四王法を修している。こうした新羅調伏のために四天王信仰を用いようとした典型が、貞観九年(867)の伯菅・出雲・石見・隠岐・長門の五カ国に命じた四王寺建立といえよう。 9世紀段階における日本側の対応は、より現実的であり、8世紀段階と比べると切実味があるように思われる。その背景には、弘仁四年(813)の場合のように、来着した新羅人によって肥前国の小値賀島の島民が殺傷されるといった実害が起きているという事情が考えられる。そして、貞観期には、新羅による対馬襲撃といった事態にまでおよぶのである。対馬のみではなく、新羅の海賊が豊前国の網綿を奪うという事件が起きたのもこの時期である。つまり、8世紀と9世紀の対新羅関係を比較すると、具体的な被害が現実に起きているという点において9世紀の方がさし追った状況にあるといえよう。当然のことながら、国家としても、8世紀とは異なったより現実的な対応が必要となってこよう。それが、軍備や警周の強化であり、四王寺建立に代表される四天王信仰による新羅調伏であるといえる。 このような動向のなかで見落してはならないのが神祇面からの国家の対応である。8世紀にみられた香椎廟や伊勢神宮への新羅無礼の報告や奉幣が9世紀にはどのようになったのかという点は問題であろう。みたように、9世紀には四天王信仰という仏教的な面がとかく前面に押し出され、神祇的な面は後退しているようにみえるからである。こうした傾向のなかで、興味深い史料が、『日本三代実録』 にみられる。それは、伯曹・出雲・石見・隠岐・長門の五カ国に対して四王寺建立が命じられた貞観九年(867)五月二六日のほぽ半年前にあたる貞観八年一一月一七日条である。

 勅曰。廼者恠異頻見。求之蓍龜。新羅賊兵常窺間隙。變之發唯縁斯事。夫攘未兆。遏賊將來。唯是神明之冥助。豈云人力之所爲。宜令能登。因幡。伯耆。出雲。石見。隱岐。長門。大宰等國府。班幣於邑境諸神。以鎭護之殊効。又如聞。所差健兒。統領選士等。苟預人流。曾無才器。徒称爪牙之。不異蟷之衛。况復可教之民。何禦非常之敵。亦夫十歩之中必有芳草。百城之内寧乏精兵。宜令同國府等勤加試練必得其人。

 これがその全文である。内容はというと、最近、恠異がしきりとあらわれるとあり、これはひとえに新羅の賊兵が常に間隙をうかがっていることによる、といっている。そして、新羅の賊を防ぐのは神明の冥助しかないとして、能登・因幡・伯菅・出雲・石見・琴長門の諸国と太宰府に命じて「邑境の諸神」に奉幣して鎮護の殊効を祈らせている。また、それと同時に、兵士たちの怠慢ぶりを指摘して試練を加えることを命じている。 『日本三代実録』にみえるこの貞観八年二月十七桑は、同年に肥前国の大領が新羅の対馬襲撃を太宰府に奏上したことを意識したものであると考えられるが、さらに、翌年の五月二六日条の四王寺建立の件と一連のものととらえてよいと思われる。つまり、新羅の対馬襲撃という状況に対して、まず、同年の十一月の段階で軍律の強化と神祇による鎮護を祈らせ、翌年の五月の段階で仏教による新羅調伏を祈らせたということである。このようにして、実際の軍隊のひきしめと神仏による精神面における防備とをおこない、新羅への対策の万全を期したものと考えられる。 このようにとらえて大過ないならば、四天王寺建立の命と前年の諸社への班幣とは、仏教的ということと神祇的といいうことの相違はあるものの次元的には同じものと認識することができよう。四天王寺建立を命じられた五ヵ国は、諸社奉幣を命じられた七ヵ国にすべて含まれるということも、質的に両社はほぼ同一であることを物語っていよう。このようにとらえ、しかも、韓国伊大氏社の創建が仏教面での四王寺建立と対応するものというふうに考えるならば、貞観八年二月一七日の「邑境の諸神」へ奉幣して鎮護を祈れという命が、出雲国の韓国伊大氏社の創建の引き金となったと推測することは時期的にもさほど不合理とはいえないであろう。したがって、韓国伊大氏神社の創建を四王寺の建立とほぼ同時期と想定することについては一応の妥当性はあると考えられる。

四 「同社坐」・「同社神」についての問題

 次に、韓国伊大氏神社につけられている同社坐・同社神・同社について考えてみることにする。いま、あらためて『延喜式』にみられる韓国伊大氏神社の表記に注目するならば、出雲国の意宇郡として、
   ①同社坐韓国伊太氏神社
   ②同社坐韓国伊大氏神社
   ③同社坐韓国伊大氏神社
とあり、出雲郡として、
   ④同社神韓国伊太氏神社
   ⑤同社韓国伊大氏神社
   ⑥同社韓国伊大氏神社

とみえる。つまり、これらの韓国伊大氏神社には、必ずその頭に同社坐もしくは同社(神)がついているということになる。このうち、同社と同社神とはすでにふれたように同様の意味としてよいと思われる。したがって問題なのは、同社坐と同社との関係についてということになる。この点についてのべるならば、従来、さほど厳密に意識されてこなかったように思われる。この間題に関しては、意宇郡の三社がみな同社坐で、出雲郡の三社がともに同社であることから、『出雲国風土記』の編纂時において各郡の間に表記の統一が不徹底であったという意見がでるかもしれないが、出雲郡には、同社と同社坐の双方の表記があるので、そう簡単にいい切ることもできない。その点では、同社坐と同社との相違に注意を向けられた石塚尊俊氏の指摘は重要である。しかし、いまだに両者の相違については問題が多く残されているといえよう。  このように同社坐と同社との関係については、簡単にのべることのできない問題であるが、まず、同社坐に関しては、相殿神と考えてよいと思われる。たとえば、『延喜式』神名帳の出雲国意宇郡をみると、

 ①玉作湯氏神社
 ①同社坐韓国伊太氏神社

 ②揖夜神社
 ②同社坐韓国伊大氏神社

 ③佐久多神社
 ③同社坐伊大氏神社

という関係がみられる。ここにみられる①の韓国伊太氏神社は、玉作湯神社の相殿神と思われる。つまり、韓国伊太氏神社としての独自の社殿をもってはおらず、玉作湯神社に共に祭られているという形態をとっていたと思われる。しかし、この場合、玉作湯神社の祭神である櫛明玉神に対して従配もしくは合祀されているというのではなく、韓国伊太氏神社という二社の扱いをされていたということである。こうしたことが、『延喜式』の同社坐となったのではなかろうか。②、③の場合も①と同じ事情と考えられる。

 これに対して、同社の場合はどうであろうか。『延喜式』神名帳の出雲郡をみると、

 ④阿須伎神社
 ①同社韓国伊太氏神社

 ⑤出雲神社
 ②同社韓国伊大氏神社

 ⑥曽枳能夜神社
 ⑥同社伊大氏神社

という関係がみられる。この場合は、韓国伊大氏神社は境内社として存在していたのではないかと思われる。たとえば、④についてみると、韓国伊太氏神社は阿須伎神社の境内地に祭られていたということになる。しかし、阿須伎神社とは別に、独自の社殿を形成していたと思われる。このような存在形態が、同社とされた韓国伊大氏神社の実像ではなかったかと推測される。

揖夜神社本殿、手前は同社坐韓国伊太氏神社

 以上のようにとらえるならば、同社坐韓国伊大氏神社は独自の社殿をもっていないという点において、また、同社韓国伊大氏神社は他神の境内地に鎮座しているという点において共に完全に独立して存在している神社とはいえない。このことは、一見すると仏教的な面で新羅調伏のために建立された四王寺と質的に同類とみることはできないように思われる。しかし、ここで、再度、四王寺の建立を命じた『日本三代実録』の貞観九年五月二六日条をとりあげてみたい。

 造八幅四天王像五鋪。各一鋪下伯耆。出雲。石見。隱岐。長門等國。下知國司曰。彼國地在西極。堺近新羅。警之謀。當異他國。宜歸命尊像。勤誠修法。調伏賊心。消却變。仍須點擇地勢高敞瞼瞰賊境之道場。若素无道塲。新擇善地。建立仁祠。安置尊像。請國分寺及部内練行精進僧四口。各當像前依勝王經四天王護國品。晝轉經卷。夜誦神咒。春秋二時別一七日。清淨堅固。依法薫修。

 これが該当条である。これによると、八幅の四天王像を五鋪つくり、それぞれ一鋪ずつを伯耆・出雲・石見・隠岐・長門の五カ国に安置することを命じている。そして、国司に対して、「彼国地は西の極に在りて、境は新羅に近く、警備の謀、他国と異なるべし」として「宣しく尊像に帰命し、勤誠にして法を修し、賊心を調伏し、災変を消却すべし」とさとしている。さらに、「地勢高廠にして賊境を瞼瞰する」ところにある道場、すなわち寺院を探すようにと指示している。そして、もしそのような寺院がない場合には、新たにふさわしい場所をえらび「仁祠」を建立して四天王像を安置せよとのべ、そこに「国分寺及び部内の練行精進の僧四口を請じ、各々の像の前に最勝王経、四天王護国品に依りて、昼は経巻を転じ、夜は神呪を誦へ、春秋の二時には別に一七日、清浄堅国にして法に依りて薫修すべし」と命じている。これが四王寺の建立ということになるのであるが、ここで、その設置の基準というか状態について注目してほしい。国家は、まず、地形的に高くなっていて見晴らしがよく、賊境を見おろすことができるような寺院を選べといっている。そして、そうした条件にあてはまるような寺院がないときには、新たにそうした条件をみたすようなところに仁祠を建立して四天王像を安置せよといっているのである。つまり、四王寺ははじめから新しく建立することを前提にしたものではない。ということである。適当な寺院がある場合には、そこに四天王像を安置し、四王寺とするわけであり、そうした寺院のないときにはじめて、新たに四王寺を建立することになるのである。その場合にも「仁祠」とあることから推測できるように、それほど大きな寺院ではなく、比較的、小規模なものであつたであろうと思われる。 このようにみるならば、同社坐もしくは同社という条件がついた韓国伊大氏神社と四王寺とは規模的にもほぽ同質ということができ、両者は対応しているといってよいのではあるまいか。つまり、韓国伊大氏神社への扱いがいやに低いようにみうけられるが、四王寺についても建立の命をよくみていくならば、韓国伊大氏神社と同様な措置がとられていることに気がつく。こうしたことの理由としては、ひとつには経済的な要因もあげられようが、それよりも状況的にさしせまっており、新しく建立する時間が惜しいといった事情があると考えられる。

五 「伊大氏」の意味について

 最後に、伊大氏神の「伊大氏」に注目してその神の性格について考えてみたい。そもそも、韓国伊大氏神社に祭られている神を伊大氏神としたのは、播磨国の飾磨郡の式内社として射楯兵主神社(二座)があることによる。つまり、韓国は文字通り朝鮮半島、すなわち当時の新羅のことであり、「伊大氏」は「射楯」と考えるわけである。このようにとらえるならば、韓国伊大氏神社の伊大氏神の性格を規定する上で、播磨国の射楯兵主神社の射楯神の性格は重要である。そこで、『播磨国風土記』の飾磨郡因達里の条をみるならば、

 因達里土中々 右称因達者 息長帯比売命 欲平二韓国 渡坐之時 御々船前 伊太代>之神 在於此処 故因神名 以為里名
とある。因達里の地名由来は、息長帯比売命、すなわち神功皇后が韓国(新羅を平定するために朝鮮半島へ渡ったとき、船前に立って導いた伊太代神がこの地に鎮座しているからであるという。神名がもとになって里名ができたとしている。

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中臣印達神社

 ここにみえる伊太代神が射楯兵主神社の射楯神である。因達里の条の伊太代神、すなわち射楯神は、朝鮮半島へ向かう神功皇后の軍船を誘導する航海神としての性格をみせているが、単なる航海神というのではなくて軍船を守護する武神・軍神としての性格もあり、むしろこちらの方が濃厚と考えられる。『播磨国風土記』にみられる伊太代神は音を漢字に移したものであるが、射楯神という表記からはこの武神・軍神としての要素がよく読みとれるであろう。射楯神の「楯」はいうまでもなく敵が射った矢を防ぐための兵器であり、敵から自らを守るためのものである。したがって、射楯神の表記である「射楯」からは、敵から自らを守護するという意味を読みとることができ、『播磨国風土記』の因達里の条にみられる伊太代神の伝承を象徴しているといえるであろう。

射楯兵主神社

 射楯神にはこのように、神功伝承との関係がみられるが、このことは同時に、射楯神と韓国との関係性についてもいうことができよう。このようにのべると、『播磨国風土記』の伝承も『記紀』の影響を受けたもので、創作されたものではなかろうかという疑問がでてくるかもしれない。たしかに神功伝承は、『記紀』の編纂者によってまとめあげられたものであろうが、このことがただちに『播磨国風土記』のこの伝承も『記紀』の影響下にあるとはいえないと考えられる。というのは、『播磨国風土記』の成立は、和鋼六年(713)の『風土記』の撰進の命が出されて程なくの時期と推測されており、『日本書紀』の完成以前と考えられるからである。『播磨国風土記』の伝承と『記紀』の伝承との関係を早急にのべることはつつしまなければならないであろうが、『記紀』にみられる神功伝承が形成されるさいに、『播磨国風土記』にみられる伝承が史料として使われたということも考えてよいであろう。 『播磨国風土記』の因達里の条で注目したいもうひとつの点は、ここにみられる伊太代神(射楯神)が、通説として説かれている五十猛神との関係についてまったくふれていないということである。もし、通説のごとくであれば、因達里の条は神功伝承よりもスサノオ伝承がみられるのではなかろうか。しかし、因達里の条はみたように、スサノオ伝承についてはまったくふれるところがない。このことは、とりもなおさず「イタチ」と五十猛神との関係は考えられないということになるであろう。 以上のように、『播磨国風土記』の因達里の条の検討から伊太代神には、韓国(新羅との関係性がみられた。しかもそれは軍事的関係であり、伊太代神は軍船の前に立って軍勢を韓国(新羅)から守るという役割を果たしている。こうした関係は、貞観期の日本と新羅との関係にも通じるところがあるように思われる。もっとも貞観期の場合は、日本が新羅を攻めるというのではなく、新羅の海賊などがしばしば日本を襲うということであり、いわば神功伝承とは攻守ところをかえているといえる。しかしながら、新羅から日本を守護するという存在が必要な点においては同じであり、貞観期に韓国伊大氏神社が創建される必然性は十分にあると考えられる。そして、伊大氏神を射楯神と把握することも、以上の点から納得することができるであろう。

結 語

 従来、さほど検討されることもなく、通説化していた韓国伊大氏神社についてあらためて検討を加えてみた。上田正昭氏からいただいたご教示に導かれて、かつてのべた拙論を再度みつめなおすことができた。結果的には、韓国伊大氏神社は、射楯神を祭る神社であり、四王寺の建立とほぽ同時期の貞観期に建立されたものであり、当時の対新羅関係の悪化という背景のなかで日本を新羅から守るという目的で建立されたという、かつての自説を補強することになった。上田氏のご教示に深く感謝申しあげると共に、未熟ゆえにいただいたご教示を十分にふまえていないのではないかという恐れもあるがいまはひとまず擱筆することにする。

 注

 (1) 千家俊信『出雲国式社考』 (岩政信比古校定『神祀全書』五所収
 書名     スサノオ神の表記法        スサノオ神の降りた場所    備考
古事記      (速)須佐之男命     出雲国の肥の河上の烏髪の地
日本書紀本文    素戔鳴尊        出雲国の簸の川上
日本書紀第一の一書 素戔鳴尊        出雲国の簸の川上
日本書紀第二の一書 素戔鳴尊        安芸国の可愛の川上
日本書紀第三の一書 素戔鳴尊        場所については明記していない
日本書紀第四の一書 素戔鳴尊        新羅を経て出雲国の簸の川上の鳥上の峰 五十猛命をひきいて新羅に渡る
日本書紀第五の一書 素戔鳴尊        韓郷から紀伊国を経て熊成峯 五十猛命・大屋津姫・抓津姫が登場

(2) スサノオ神の出雲降りについての『記紀』 の記述をまとめると上のような表になる。この表から明らかなように、スサノオ神と朝鮮半島との関係がみられ、五十猛神が姿をみせるのは、『日本書紀』の第四の一書と第五の一書である。たとえば、第四の一書には、「素戔鳴尊所行無状。故諸神科以千座置戸而遂逐之。是時。素戔鳴尊帥其子五十猛神。降到於新羅國。居曾尸茂梨之處。乃興言曰。此地吾不欲居。遂以埴土作舟乘之東渡。到出雲國簸川上所在鳥上之峯。時彼處有呑人大蛇。素戔鳴尊乃以天蝿斫之劔斬彼大蛇。時斬蛇尾而刃缺。即擘而視之。尾中有一神劔。素戔鳴尊曰。此不可以吾私用也。乃遺五世孫天之葺根神上奉於天。此今所謂草薙劔矣。初五十猛神天降之時。多將樹種而下。然不殖韓地盡以持歸。遂始自筑紫。凡大八洲國之内莫不播殖而成青山焉。所以稱五十猛命爲有功之神。即紀伊國所坐大神是也。」

と記されている。これによると、スサノオ神の御子神である五十猛神は、スサノオ神にひきいられて天降りし、新羅国の曽尸茂梨に到ったことになっている。このとき五十猛神は多くの樹種をもっていたが韓地には植えずに大八洲国に渡り、筑紫から始めて国中に青山を成したので有功の神とされ、紀伊国の大神として鏡座しているとされている。また、第五の一書をみると、「素戔鳴尊曰。韓郷之嶋。是有金銀。若使吾兒所御之國。不有浮寶者。未是佳也。乃拔鬚髯散之。即成杉。又拔散胸毛。是成桧。尻毛是成[木皮]眉毛是成 樟。已而定其當用。乃稱之曰。杉及[木豫]此兩樹者。可以爲浮寶。桧可以爲瑞宮之材。[木皮]以爲顯見蒼生奥津棄戸將臥之具。夫須[口敢]十木種皆播生。于時素戔鳴尊之子。號曰五十猛命。妹大屋津姫命。次採津姫命。凡此三神亦能分布木種。即奉渡於紀伊國也。然後素戔鳴尊居熊成峯。而遂入於根國者矣。』棄戸。此云須多杯。[木皮]此云磨紀。」

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とある。これによると、スサノオ神が韓郷の島は金銀が豊富であるといい、さらに吾が児の支配する国に船がないのはよろしくないといって自らの身体の毛を抜いて木々にかえたとある。この時、スサノオ神の御子神である五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命の三神もまた、木種を蒔いたとされる。そして、この三神は紀伊国へ渡ったことになっている。このように、『日本書紀』の第四・第五の一書にはスサノオ神の天降りにさいして、朝鮮や御子神の五十猛神のことが記されている。

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諏訪大社について

諏訪大社

諏訪大社(すわたいしゃ)は、長野県の諏訪湖の周辺に4箇所の境内地をもつ神社。信濃国一宮で名神大社。神位は正一位。全国各地にある諏訪神社の本社である。その起源は定かではなく、国内にある最も古い神社の一つとされている。

概要

平安時代 - 江戸時代を通じて上社では諏訪氏が、下社では金刺氏が大祝を務めた。末社は2万5000社に及び神社本庁別表神社として宗教法人諏訪神社によって運営されている。通称、「諏訪さま」、「諏訪大明神」等とも呼ばれる。延喜式において古代においては神社の中の最高位である名神大社とされていた。1871年(明治4年)に国幣中社、1896年(明治29年)に官幣中社となり、1916年(大正5年)に官幣大社となって、1948年(昭和23年)に諏訪大社の号が用いられるようになった。現在、氏子・崇敬者の総人口は日本国内に10万人~50万人、国外に数百人いるといわれている。

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諏訪湖の南側に上社(かみしゃ)本宮・前宮の2宮、北側に下社(しもしゃ)春宮・秋宮の2宮があり、計4つの宮から成る。社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ木の柱が立っているほか社殿の配置にも独特の形を備えている。

別名を南宮とも言い、諏訪大社、南宮大社、敢国神社の3社は何らかの関係がある様で、諏訪大社を本山、南宮大社を中の宮、敢国神社を稚(おさな)き児の宮と呼ぶという。

『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われている通り、軍神としても崇拝された。また、中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟、漁業の守護祈願でも知られる。[1]

祭神

上社

建御名方命(たけみなかたのみこと)
八坂刀売命(やさかとめのみこと)
下社 上社の2柱の他に
御兄八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)
本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるとされる。なお、上記の神々は現在は神性が習合・混同されているため全てミシャグチか建御名方として扱われる事が多く、区別されることは非常に稀である。神事や祭祀は今尚その殆どが土着信仰に関わるものであるとされる。

記紀神話が伝えるところでは、天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、出雲を支配していた大国主命に国譲り、つまり出雲王朝の支配権を譲渡するように迫ったという。これに対して、大国主の長男である建御名方命が、国譲りに反対し、武甕槌命と相撲をしたが負けてしまった。そこで建御名方命は諏訪まで逃れ、その地で王国を築いたという。諏訪大社の起源は、この神話にあるといわれている。

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というのも、この神話が天皇家を中心とする律令制国家の成立の過程で、政治的な理由のために、後から作り上げられたものであるとする説がほぼ確定しているためである。本来は古来から信仰されていた土着の神(国津神)であり、その縄文時代以来の土着信仰は、御柱祭などの諏訪神社の祭祀行事全般に名残を残している。

この御柱であるが、それ以前のミシャグチ信仰の石柱との関連性があるという説が有力である。神長官守矢によると御柱はミシャグチを降ろす依り代であるとの事。また富士見町の御射山(みさやま)や松本市の三才山(みさやま)などの地名は、このミシャグチ信仰が地名として残ったものとも言われている。

尚、八幡や住吉など他の信仰にも見られるように個々の祭神が意識される事は少なく、纏めて「諏訪大明神」として扱われる事が殆どで他に「お諏訪様」、「諏訪大神」などと呼ばれている。

社格

延喜式神名帳 名神大 南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)
信濃国一の宮
国幣中社(明治4年)
官幣中社(明治29年)
官幣大社(大正5年)
神社本庁別表神社

社殿・宮

上社

前宮(まえみや):長野県茅野市宮川
本宮:長野県諏訪市中洲宮山
下社
春宮(はるみや):長野県諏訪郡下諏訪町下ノ原
秋宮(あきみや):長野県諏訪郡下諏訪町武居

前宮

諏訪明神の信仰の原点といわれる。宮のみあるが、現在神体は祭られていない。御頭祭(後述)において、十間廊が使用される。

前宮 幣拝殿

本宮

御神体は守屋山。諏訪造とよばれる幣拝殿の左右に片拝殿が並ぶ独自配置であり、参道から見ると本道がそっぽ(横)に向いているため、「大きく願いごとをしなければ聞いてくれない」と言われている。

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本宮 幣拝殿

春宮

毎年2月~7月に神体が祭られている。参道の途中にある太皷橋は、別名を下馬橋といわれ、室町時代の造りであり、身分に拘わらず馬から下りて渡らなければならないとされた。境内の造りは秋宮によく似ている。

春宮 鳥居

春宮 幣拝殿

春宮 結びの杉

春宮 下馬橋

秋宮

毎年8月~翌1月に神体が祭られている。よって、初詣は秋宮で行われる。中仙道の宿場町である下諏訪に鎮座、温泉の湧出地で、境内にも御神湯がある。正面には「根入りの杉」、奧に神楽殿、幣拝殿、左右片拝殿が並ぶ。

神事

諏訪大社式年造営御柱大祭

詳細は「御柱祭」を参照

寅年と申年に、樅を山中から切り出し、各社殿の四方に建てて神木とする祭。諏訪大社の最も重要な祭りである。

御神渡

詳細は「諏訪湖#御神渡」を参照

御神渡(おみわたり)とは、男の神がいる上社から、女の神がいる下社へ行く際に通ったとされる湖面の氷の盛り上がり現象。同様の現象は摩周湖等でも起きる。2003-04年のシーズンも現象が確認され、御柱の盛り上がりを高めた。なお、御神渡りの神事は、諏訪市の縣社八剱神社の宮司によって執り行われる。

蛙狩神事

蛙狩神事とは、元日の朝に上社本宮で行われる神事である。付近の川で冬眠している蛙を捕らえ、生贄として神前に供える。

御頭祭

御頭祭とは、4月15日に上社で行われるお祭りのことである。別名「酉の祭り」「大御立座神事(おおみたてまししんじ)」「大立増之御頭」と言われている。 現在では、鹿や猪の頭の剥製が使われているが、江戸時代に菅江真澄の残した資料に、白い兎が松の棒で串刺しにされたものや鹿や猪の焼き皮と海草が串に刺さって飾られていたり、鹿の「脳和え」「生鹿」「生兎」「切兎」「兎煎る」鹿の五臓などが供され、中世になると鹿の体全体が供され、それを禽獣の高盛呼んだといういわゆる生贄に関しての内容が残っている。また御頭祭に関して、諏訪大社七不思議の一つとして、耳裂鹿というものがある。これは前にも述べた生贄の鹿の中で、必ず耳が大きく裂けた鹿がいるというものであるという。

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御舟祭

御舟祭(おふねまつり)とは、下社の例大祭で8月1日に開催される。神体を舟(柴舟)に乗せて春宮から秋宮へ遷座する祭。舟は南北朝時代に書かれた『諏訪大明神絵詞』には「鉾山」と書いてあり、江戸時代から「御舟」と呼ばれるようになったらしい。舟の上には翁、媼とみられる人形が乗せられる。 なお、2月1日に開催される遷座祭は、秋宮から春宮への遷座であるが、あまり大きく行われない。諏訪地域は海から遠く、なぜ舟が出てくるのか不明である。「海の近くにいた神様が諏訪へ逃れた」という説や「健御名方神が妃神とともに諏訪の湖に舟を浮かべ周辺の作物の出来不出来を判じた」という説などがある。

御射山祭

御射山祭(みさやまさい)とは、上社の狩猟神事。中世には年四回八ヶ岳の裾野で巻き狩り祭を行い、御射山祭はその中で最も長く五日間続いた。青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参籠の上祭典を行なうことから「穂屋祭り」の名称もある。鎌倉時代に幕府の命で御射山祭の費用を信濃の豪族に交代負担することが決められ、参加する成年期の武士(と馬)はこの祭で獲物を射止めることで一人前の武士、成馬として認められたという。またこの祭の起こりとして南北朝時代の神道集『諏訪大明神秋山祭のこと』では「平安時代初期、坂上田村麻呂が蝦夷征討のため信濃まで来た際、諏訪明神が一人の騎馬武者に化身して軍を先導し、蝦夷の首領悪事の高丸を射落としたので田村将軍がとどめを刺すことが出来た。将軍がこの神恩に報いるため悪事の高丸を討ち取った日を狩猟神事の日と定め、御射山祭の始めとなった。この縁日(旧暦7月27日)になると討ち取られた高丸の怨霊が嵐を起こすといわれる」という伝説を伝えている。現在はこの祭はずっと小規模になっている。

文化財

重要文化財

諏訪大社上社 6棟(本宮幣殿、本宮拝殿、本宮左右片拝殿、本宮脇片拝殿、本宮四脚門)
諏訪大社下社 7棟(春宮幣拝殿、春宮左右片拝殿、秋宮幣拝殿、秋宮左右片拝殿、秋宮神楽殿)
太刀 無銘 - 1960年盗難
太刀 銘忠吉 - 1960年盗難
銅印 印文「賣神祝印」
その他
算額(上社) 明治12年(1879年)2月 伊藤定太門人奉納
算額(下社) 慶応4年(1886年)9月 伊藤定太清澄門人奉納

http://park14.wakwak.com/~systemheart/suwataisya/

http://yujiwatanabe.hp.infoseek.co.jp/h-suwa.htm

ナギ様とざんげ様のお隣にいらした青葉 つぐみ様はやはりここがお似合いですね!(途中イメージを変更しと事お許し下さい!)

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出雲大社について

出雲大社

出雲大社(いずもおおやしろ、いずもたいしゃ)は島根県出雲市にある神社である。式内社(名神大)、出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。 古来より「国中第一之霊神」として称えられ、その本殿は「天下無双之大廈」と評された。縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日~17日)。正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれる。

由緒

日本神話によれば、大国主神が天津神に国譲りを行う際、その代償として、天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしいと求め、造営されたのが出雲大社の始まりであるという。古代より杵築大社と呼ばれていたが、明治4年(1871年)に出雲大社と改称した。延喜式神名帳には「出雲国出雲郡 杵築大社」と記載され、名神大社に列している。神階は貞観9年(867年)に正二位まで昇った。江戸時代には社領五千石を有していた。明治4年に官幣大社に列格し、大正時代に勅祭社となった。現在は神社本庁の別表神社となっている。

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創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。 現在の宮司は84代国造千家尊祐で國學院大學を卒業後太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格し平成14年(2002年)宮司に就任し翌年神社本庁より神職身分特級を拝受している。 また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様を練り込んだものであり他に類を見ない。 現在も、天皇家の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。

創建伝承

出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。

大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に対して、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命をに祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)
神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)
垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)
斉明天皇5年、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)[1]
伝承の内容や大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。

また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている。

祭神の変化

出雲大社の祭神は大国主大神であるが、17世紀以前は祭神が素戔嗚尊[2]であった。それを示す記録が複数存在する。14世紀に「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。」と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、寛文6年(1666年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」とある。

さらには、鎌倉時代から神仏習合の影響で天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、別当寺も兼ねた鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もした[3]。また、江戸時代初期には社僧が寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していた。しかしながら、杵築大社(出雲大社)内は仏堂や仏塔が立ち並んで神事が衰微したため、17世紀の寛文年間の遷宮時に出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められ、寛文4年から寛文5年にかけて仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された[3]。併せて祭神は素戔嗚尊から大国主大神に改められた。

施設

本殿

現在の本殿は延享元年(1744年)に作られた。高さは8丈(およそ24m)で、これも神社としては破格の大きさであるが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられる。その伝承より想定される形は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものであった。この想定は東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨大であったとされる。これは平安時代に源為憲によって作られた「口遊」で数え歌に歌われている(雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎[4])ことを元にしている。16丈の建築物が古代において建造可能であったのかに疑問を呈する意見もあるが、実際に何度も倒壊したという記録があり、当時の技術レベルを超えて建築された可能性は否定出来ない。上古32丈についても、山の頂上に建てられ、その山の高さであると考えれば、不自然では無いという意見もある。平成12年(2000年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。古代社殿の柱ではと注目を集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも宝治2年(1248年)造営の本殿である可能性が高まった。

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荒垣内摂社

大神大后神社(御向社) -- 式内名神大社(同社坐大神大后神社)。大国主の正后・須勢理毘賣命を祀る。
伊能知比賣神社(天前社) -- 式内社(同社坐伊能知比賣神社)。大国主が亡くなったときに蘇生を行った蚶貝比賣命・蛤貝比賣命を祀る。
神魂御子神社(筑紫社) -- 式内社(同社坐神魂御子神社)。大国主の妻・多紀理毘賣命を祀る。
素鵞社 -- 式内社(出雲神社)。父(または祖先)の素戔鳴尊を祀る。
氏社(天穂日命)
氏社(宮向宿彌)
門神社(宇治神・久多美神)  
釜社(宇迦之魂神)
十九社(東西に2つ) -- 八百萬神を祀る。神在祭の際、神々の宿舎となる。

荒垣外摂末社

神魂伊能知奴志神社(命主社) -- 式内社(同社神魂伊能知奴志神社)。神産巣日神を祀る。
阿須伎神社(阿式社) -- 式内社。子の阿遲須伎高日子根命を祀る。
大穴持御子玉江神社(乙見社) -- 式内社(同社大穴持御子玉江神社)。子の下照比賣命を祀る。
大穴持御子神社(三歳社) -- 式内社(同社神大穴持御子神社)。子の事代主神・御年神・高比賣命を祀る。
上宮(素戔鳴尊・八百萬神) -- 神在祭の際、神々の会議所となる。
出雲井社(岐神)
大穴持伊那西波岐神社 -- 式内社(同社大穴持伊那西波伎神社)。国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、白兔神を配祀する。
因佐神社(建御雷神)
湊社(櫛八玉神)
下宮(天照大御神)
大歳社(大歳神)
祓社(祓戸四柱神)

その他

神楽殿の南側には高さ47mの国旗掲揚台があり、日本国内で最大の日章旗(日本の国旗)が掲げられている。国旗の大きさは畳75枚分、重さは約50kgに達する。通常は朝掲揚され夕方に奉降されるが悪天候時にはこれを行わない場合がある。
神楽殿の東側には唱歌「一月一日」の歌碑が建っている(同唱歌を作詞した千家尊福は出雲大社第80代出雲国造である)。

文化財 [編集]

建造物

国宝

「出雲大社本殿(附 内殿、棟札)」 - 1900年(明治33年)4月7日重要文化財(当時の国宝)に指定。1952年(昭和27年)3月29日国宝に指定。
重要文化財
「出雲大社」 - 2004年(平成16年)7月6日指定。重要文化財「出雲大社」として、以下の社殿21棟および鳥居1基が一括指定されている。
楼門
神饌所(2棟)
玉垣
摂社大神大后(おおかみおおきさき)神社本殿
摂社神魂御子(かみむすびみこ)神社本殿
摂社神魂伊能知比売(かみむすびいのちひめ)神社本殿
摂社門神社本殿(2棟)
八足門(やつあしもん) - 蛙股の「瑞獣」や流麗な「流水文」などの彫刻は『左甚五郎』の作と伝えられる。
観祭楼及び廻廊
西廻廊
瑞垣
摂社素鵞(そが)社本殿
摂社氏社本殿(2棟)
末社釜社本殿
末社十九社本殿(2棟)
宝庫
会所
銅鳥居 - 出雲国造家と同じく、天穂日命を祖とする 長州藩第3代藩主 毛利綱広(大江氏)の寄進(寛文6年、1666年)。

美術工芸品

国宝

「秋野鹿蒔絵手箱」
重要文化財
赤糸威肩白鎧 兜 大袖付
太刀 銘光忠(附 糸巻太刀拵)
紙本墨書後醍醐天皇王道再興綸旨(元弘三年三月十四日 )
紙本墨書後醍醐天皇宸翰宝剣代綸旨(三月十七日)
紙本墨書宝治二年遷宮儀式注進状(建長元年六月)
硬玉勾玉
銅戈

無形文化財

選択無形民俗文化財「出雲の火鑚習俗」

出雲国造家

出雲大社の祭祀者である出雲国造家は、南北朝時代に「千家」と「北島」の二家に分裂し、その祭事は両家が二分して行っていたが、現在は千家家が執り行っている。

またそれぞれ大国主大神を主祭神とする宗教団体として、千家家が出雲大社教、北島家が出雲教を主宰している。

祭事

1月
元旦 - 大饌祭(大御饌祭)
3日 - 福迎祭
5日 - 説教始祭
旧暦元旦 - 福神祭
旧暦1月28日 - 杓子祭
2月17日 - 祈穀祭
4月1日 - 教祖祭
5月
14日 - 例祭(大祭礼) 勅使参向 この祭りにのみ神職は正服を着装し奉仕する
15日 - 例祭(大祭礼) 二之祭
16日 - 例祭(大祭礼) 三之祭
6月1日 - 凉殿祭(真菰神事)
8月
5日 - 爪剥祭
6-9日 - 出雲大社教大祭
14日 - 神幸祭(身逃神事)
旧暦10月
10日 - 神迎祭
11日?17日 - 神在祭(御忌祭)
11月23日 - 献穀祭・古伝新嘗祭
12月
15日 - 謝恩祭・勧農祭
20日 - 御煤払
23日 - 天長節祭
31日 - 大祓・除夜祭

また、出雲大社の最大の特徴として日供祭が挙げられる。日供祭は通常どの神社でも朝と夕に神様に食事を差し上げる祭りをやるのだが、出雲大社では毎日宮司が自らこれを行う建前である。大概の神社では当番で一人にて奉仕するものであるが出雲大社ではあくまでも大国主命のお祭りは天穂日命が行うという神代よりの掟に従い宮司が7、8人の神職を従えて奉仕するのが基本であるが、実際にはしばしば代理の神職により奉仕される。

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交通

最寄駅:一畑電車大社線・出雲大社前駅
JR出雲市駅から一畑バスで25分(運賃は大人510円)※便によっては28分かかる便もあり。
一畑電車電鉄出雲市駅から出雲大社前駅まで25分(運賃は大人480円)※川跡駅で乗換

周辺情報

日御碕
日御碕神社 : 出雲大社の祭神 「大国さま」の 「祖神さま(おやがみさま)」にあたる 「素戔鳴尊」や「天照大神」を祭る。 日御碕神社・社家の「小野家」は、戦前は出雲大社の千家・北島両家や、石見一ノ宮の物部神社・社家の「金子家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。
出雲日御碕燈台 : 日御碕の突端に立ち、日本一の灯塔の高さを誇る石造灯台。
島根県道29号大社日御碕線 : 出雲大社(出雲市大社町)と日御碕を結ぶ海沿いの道。 冬は、海が時化る(しける)と「潮被り」の道となり、安全に「冬の日本海」を体感できる コースとなっている。 晴れると、出雲神話の舞台である、稲佐の浜や三瓶山が見渡せる。
経島(ふみしま):「経島ウミネコ繁殖地」は、国の天然記念物。日御碕神社のすぐ裏手にあり、冬季は、「ニャー、ニャー」というウミネコたちの鳴声や、鄙びた風情の漁港に、冬の日本海の風情を体感できるスポットとなっている。
稲佐の浜
大社駅
鰐淵寺
真名井社家通り : 大社東隣、北島家国造館前の社家居宅が立ち並ぶ通り。趣があり、下記の古代出雲歴史博物館への近道でもある。
島根県立古代出雲歴史博物館 : 出雲大社の東隣にあり、中央ロビーには、2000年に出雲大社境内から出土した、古代・中世高層神殿 巨大柱 『 宇豆柱 』(鎌倉前期)や、大社東方200mにある、命主社背後の古代祭祀遺跡(真名井遺跡)から出土した銅戈・勾玉(重要文化財)も展示されている。

関連項目

出雲国造
出雲国
古代出雲
出雲大神宮 - 丹波国一宮で「元出雲」を称した
出雲大社境内遺跡
出雲大社松山分祠
出雲大社大阪分祠
神社建築
国宝一覧
島根県立古代出雲歴史博物館
中国自然歩道
日本放送協会 - NHK総合・NHK教育のジャンクション映像で「君が代」共に掲揚されている日章旗はここにある国旗掲揚台で撮影されたものである。
江角マキコ - 職員のアルバイトをしていた
出雲大社教
出雲教
出雲駅伝 - 同大社はスタート地点になる

http://www.izumooyashiro.or.jp/

http://www.izumo-kankou.gr.jp/

出雲のお国御姉妹元気にされているのでしょうか?(正面から見て一番右の方はまた後で説明致します。)やはりお姉様は御伊勢新宮がお似合いですね!ざんげ様!

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鶴岡八幡宮について

鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)は神奈川県鎌倉市にある神社。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉八幡宮とも呼ばれる。境内は国の史跡に指定されている。

歴史

康平6年(1063年)8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。永保元年2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。

治承4年(1180年)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。建久2年(1191年)に、社殿の焼失を機に、上宮と下宮の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。承元2年(1208年)には神宮寺が創建される。

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源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。 鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退したが、江戸時代に入ると徳川幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂等を建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。また境内には、方五間の大塔、東照宮も存在した。

徳川幕府崩壊後、明治元年(1868年)3月13日に「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が明治政府から出され、また明治3年(1870年)に大教宣布がなされると、鶴岡八幡宮においてもいわゆる廃仏毀釈の動きが始まった。同年中に大塔などの仏堂は破壊され、仏像、仏具、什宝、経典なども破壊・焼却処分されるか散佚した。ただし一部は現存し、鎌倉寿福寺、浅草寺、普門院、五島美術館、東京国立博物館に保管されている。鶴岡八幡宮の場合、これらは神主に改名した十二院の社僧が中心となって行った。また、一部残存していた仏堂も、その後の火事で消失したが、外国人観光客が撮影した写真やスケッチが残されている。

境内

本宮(上宮)

文政11年(1828年)に徳川家斉が再建した流権現造で、国の重要文化財に指定されている。本宮は大石段上にある。
大石段
61段あり登りきると本宮である。
大銀杏
樹齢千年余といわれる。建保7年(1219年)1月27日、源頼家の子で八幡宮の別当を務めていた公暁は、この銀杏の木に隠れて待ち伏せ、源実朝を殺害したと伝わるが当時の樹齢を考えると、人が隠れることのできる太さにはまだ成長していなかったという説もあるため真偽は不明。
舞殿
下拝殿とも呼ぶ。源頼朝の求めに応じて舞った静御前が、源義経を慕う次の歌を詠んだ。
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

ただし当時はまだ舞殿は建立されておらず、実際に静御前が舞ったのは若宮社殿の回廊だといわれている。
若宮(下宮)
仁徳天皇など三柱を祀る。
今宮
後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇を祀る。承久の乱で流された三天皇である。
白旗神社
源頼朝と源実朝を祀る。逸話として豊臣秀吉が小田原攻めの後に参拝したが、その際に祀られていた頼朝像を見て「我と御身は共に微小の身から天下を平らげた。しかし御身は天皇の後胤であり、父祖は関東を従えていた。故に流人の身から挙兵しても多く者が従った。我は氏も系図も無いが天下を取った。御身より我の勝ちなり。しかし御身と我は天下友達なり。」と言うと、笑いながら頼朝像の背中をポンポンと叩いたという。
丸山稲荷社
旗上弁天社
源氏池の島にある。明治の神仏分離令で一度は廃れたが、昭和55年に文政年間の古図を元とし復元された。周囲には源氏の二引きの白旗が多く見られる。
祖霊社
由比若宮(元八幡)
源平池
北条政子が掘らせたと伝わる。源氏池には島が三つ、平家池には島が四つ浮かび、それぞれ産と死を表すという。源氏池の島には旗上弁天社がある。
太鼓橋
源平池を横切るように作られている石造の橋。創建当時は木造で、朱塗りだったため「赤橋」と呼ばれた。北条氏庶流赤橋家の苗字はこの橋の名称に由来する。

参道

鶴岡八幡宮の参道は若宮大路と呼ばれる。由比ヶ浜から八幡宮まで鎌倉の中心をほぼ南北に貫いており、京の朱雀大路を模して源頼朝が自らも加わり築いた。二の鳥居からは段葛(だんかずら)と呼ばれる車道より一段高い歩道がある。そこを抜けると三の鳥居があり、境内へと到る。

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文化財

国宝・重要文化財

建造物

重要文化財「鶴岡八幡宮 大鳥居(一の鳥居)」12代将軍徳川家慶による。
重要文化財「鶴岡八幡宮 末社丸山稲荷社本殿」
重要文化財「鶴岡八幡宮 摂社若宮」
重要文化財「鶴岡八幡宮 上宮 本殿、幣殿及び拝殿」
重要文化財「鶴岡八幡宮 上宮 回廊」
重要文化財「鶴岡八幡宮 上宮 末社武内社本殿」

工芸品

国宝「古神宝類」(神服類)
国宝「古神宝類」(刀剣武具類)
国宝「籬菊螺鈿蒔絵硯箱」(まがきにきくらでんまきえ すずりばこ)
国宝「太刀 銘正恒」
重要文化財「太刀 3口(各銘相州住綱広、綱家作、康国作)・桐鳳凰蒔絵糸巻太刀拵(たちごしらえ)3口」
重要文化財「太刀 金銘国吉」
重要文化財「太刀 銘長光」

彫刻

重要文化財「木造舞楽面 陵王、散手、貴徳鯉口 貴徳番子、二ノ舞」
重要文化財「木造弁才天坐像」
重要文化財「木造菩薩面」
古文書
重要文化財「紙本墨書鶴岡社務記録」
重要文化財「鶴岡八幡宮文書(二百二十四通)」
歴史資料
重要文化財「紙本墨書鶴岡八幡宮修営目論見絵図」

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史跡(国指定)

「鶴岡八幡宮境内」

祭事

1月1日 歳旦祭
1月3日 元始祭
1月4日 手斧始式
1月5日 除魔神事
1月15日 左義長神事
2月3日 節分祭
2月初午 丸山稲荷社初午祭
2月11日 紀元祭
2月17日 祈年祭
3月18日 宇佐神宮遙拝式
春分 祖霊社春季例祭
3月26日 献詠披講式
4月2日 由比若宮例祭
4月3日 若宮例祭
4月9日 丸山稲荷社例祭
4月初巳 旗上弁財天社例祭
4月13日 源頼朝公墓前祭
4月21日 武内社例祭
5月5日 菖蒲祭
5月28日 白旗神社例祭
6月7日 今宮例祭
6月10日 蛍放生祭
6月30日 大祓
6月30日 古神札焼納祭
7月7日 七夕祭
立秋の前日 夏越祭
立秋 立秋祭
8月9日 実朝祭
9月14日 宵宮祭
9月15日 例大祭
9月15日 神幸祭
9月16日 流鏑馬神事
秋分の日 祖霊社秋季例祭
10月17日 神嘗祭当日祭
10月20日 地久祭
10月28日 白旗神社文墨祭
11月3日 明治祭
11月8日 丸山稲荷社火焚祭
11月15日 七五三祈請祭
11月23日 新嘗祭
12月16日 御鎮座記念祭
12月23日 天長祭
12月31日 大祓
12月31日 古神札焼納祭
12月31日 除夜祭

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交通

鉄道

JR横須賀線・江ノ島電鉄 鎌倉駅下車・東口から徒歩10分
JR横須賀線・北鎌倉駅から徒歩で15分位。駅を降りると円覚寺があり、途中建長寺もある。徒歩で行く人も初詣などに見かけられる。

バス

江ノ島電鉄「鎌倉八幡宮前」または「八幡宮裏」下車徒歩すぐ
京浜急行バス「八幡宮」下車徒歩すぐ

年表

和暦 西暦 月日 事柄

康平6年 1063年 8月 源頼義が河内源氏氏神の壷井八幡宮あるいは京都の石清水八幡宮を勧請(鶴岡若宮)
永保元年 1081年 2月 源義家が修復
治承4年 1180年 10月12日 源頼朝が現在の小林郷北山に遷座
建久3年 1192年  源頼朝が征夷大将軍に任じられる
承元2年 1208年  神宮寺創建
建保7年 1219年  源実朝が甥の公暁に襲われ落命
文明10年 1479年 1月27日 江戸城西方の守護として太田道灌が鶴岡八幡を江戸番町に勧請
文政11年 1828年  江戸幕府11代将軍、徳川家斉の命により本殿等が造営さる
明治元年 1868年 3月 神仏分離令により廃仏毀釈がはじまる
明治元年 1868年 4月24日 仏教的神号の八幡大菩薩が明治政府によって禁止された
明治元年 1868年 7月19日 石清水八幡宮以下、鶴岡八幡宮などの放生会は中秋祭に改めさせられた
明治4年 1871年 5月14日 社格制度制定

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八幡神と武家政権

平将門は『将門記』では939年に上野(こうずけ)の国庁で八幡大菩薩によって「新皇」の地位を保証されたとされている。このように八幡神は武家を王朝的秩序から解放し、天照大神とは異なる世界を創る大きな役割があり、武家が守護神として八幡神を奉ずる理由であった。

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御伊勢参り

お蔭参り

お蔭参り(おかげまいり)とは、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣運動。数百万人規模のものが、60年周期に3回起こった。伊勢参りとも。お蔭参りの最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。これがお蔭参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんである。幕藩は規制を敷いたが、効果は無かった。流行時にはおおむね本州、四国、九州の全域に広がったが、真宗地域には広まりにくかった傾向がある。死人が生き返ったなど、他の巡礼にも付き物の説話は数多くあるが、巡礼を拒んだ真宗教徒が神罰を受ける話がまま見られる。一番多いのは、おふだふりである。村の家々に神宮大麻(お札)が天から降ってきたと言う。これは伊勢信仰を民衆に布教した御師がばら撒いたものだともいわれる。

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背景

天照大神の神社として公家・寺家・武家が加持祈祷を行っていた伊勢神宮だったが、中世の戦乱の影響で領地を荒らされ、式年遷宮が行えないほど荒廃していた。その伊勢神宮を建て直すため、神宮で祭司を執り行っていた御師は外宮に祀られている豊受大神に目をつけ、農民に伊勢神宮へ参拝してもらうように暦を配るなど各地へ布教するようになった。中世には、現世に失望し来世の幸福を願い沢山の人々が寺院へ巡礼した。やがて、神社にも巡礼がさかんになった。 街道の関所が天下統一により撤廃され、参詣への障害が取り除かれた。江戸時代以降は五街道を初めとする交通網が発達し、参詣が以前より容易となった。世の中が落ち着いたため、巡礼の目的は来世の救済から現世利益が中心となり、観光の目的も含むようになった。米の品種改良や農業技術の進歩に伴い農作物(特に、江戸時代の税の柱であった米)の収穫量が増え、農民でも現金収入を得る事が容易になり、商品経済の発達により現代の旅行ガイドブックや旅行記に相当する本も発売された。当時、庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限があったが、伊勢神宮参詣に関してはほとんどが許される風潮であった。無許可の旅行であっても伊勢神宮参拝が目的であることがはっきりすれば「叱責」程度の罰で済まされた。一生に一度の伊勢神宮参詣は庶民の夢でもあった。

お伊勢講

当時の庶民にとって伊勢までの旅費は、相当な負担であった。日常生活ではそれだけの大金を用意するのは困難である。そこで生み出されたのが「お伊勢講」と言う仕組みである。「講」の所属者はそれぞれお金を出し合い、それを合わせて旅行費に充当する。積立金から「講」に所属する農地や財産を置く場合があった。誰が行くかは「くじ引き」で決められる仕組みだが、「講」の全員がいつかは当たるよう配慮されていた様である。くじ引きの結果、選ばれた者は、「講」の代表として伊勢へ旅立つ、旅の期間は農閑期が利用される。出発にあたっては盛大な見送りの儀式が行われる。また地元においても道中の安全が祈願される。参拝者は道中観光しつつ、伊勢では代参者として皆の事を祈り、土産として御祓いや新品種の農作物の種子、松阪や京都の織物などの伊勢近隣や道中の名産品や最新の物産(軽くてかさばらず、壊れないものがよく買われた)を購入する。無事帰ると、帰還の祝いが行われる。江戸の人々が貧しくとも一生に一度は旅行できたのは、この「講」の仕組みによるところが大きいだろう。またこの「お伊勢講」は平時においては神社の氏子の協同体としても作用していた。「お伊勢講」は畿内では室町中期から見られた現象だが、全国的になったのは江戸以降である。江戸時代が過ぎてもこの仕組みは残った、なお戦後は講を賭博行為とみなしたGHQにより解散させられた(無尽講を参照)。しかし、地域によっては現在でも活動を続けている伊勢講もある。伊勢講が無かった地域では、餞別が旅費の大半を占めていた。

御師の活躍

背景の項で述べている通り、伊勢神宮復興のために御師が外宮の豊受大神に目を付け、農民に伊勢信仰を広めたのがお蔭参りのきっかけである。御師は数名ずつのグループに分かれて各地に散らばり、農村部で暦を配ったり、豊作祈願を行ったりして、その年に収穫された米を初穂料として受け取る事で生計を立てていた。江戸時代も中頃になると、品種改良や農業技術の進歩により、農家の中に現金収入を得られるものが増え、新たな知識や見聞、物品を求めて旅をしようと思い立つものが現れるようになった。しかし、農民の移動に規制があった江戸時代に旅をするにはそれなりの理由が必要で、その口実として伊勢参拝が使われるようになった。この口実には、御師が農民に伊勢参拝の勧誘活動を行っていた事も理由になっていたようだ。こうして伊勢に旅立った者は、伊勢滞在時に大抵、自分達の集落を担当している御師のお世話になっていた。御師は伊勢参拝に来る人をもてなすため、自分の家で宿屋を経営している事が多かった。御師の宿屋では盛装した御師によって豪華な食器に載った伊勢や松坂の山海の珍味などの豪勢な料理や歌舞でもてなし、農民が住んでいるところでは使った事がない絹の布団に寝かせる、など、参拝者を飽きさせないもてなしを行った。また、伊勢神宮や伊勢観光のガイドも勤め、参拝の作法を教えたり、伊勢の名所や歓楽街を案内して回った。この時、天照大神が祀られている本殿の案内はそこそこにし、農民にとっての信仰の対象である豊受大神が祀られている外宮を重点的に案内した。

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お蔭参りが農村に与えた影響

お蔭参りに行く者はその者が属する集落の代表として集落から集められたお金で伊勢に赴いたため、手ぶらで帰ってくる事がはばかられた。また、伊勢参拝はあくまで旅に出る口実である事も多く、最新の知識や技術、流行などを知り見聞を広げるための旅でもあった。お蔭参りから帰ってきた者によって、最新のファッション(例:京都や松坂の最新の織物の柄)や農具(例:新しい品種の農作物がもたらされる。箕に代わって、手動式風車でおこした風で籾を選別する唐箕が広まる)、音楽や芸能(伊勢音頭に起源を持つ歌舞が各地に広まる)が、実際の品物や口頭、紙に書いた旅の記録によって各地に伝わった。

変遷

(年号のみ記載のあるものは、厳密にはお蔭参りではないが、群参の顕著な年である。)

中世

お蔭参りの前段階として、集団参詣が数回見られる。

前期

1638年(寛永15年)
1650年(慶安3年)
慶安のお蔭参りは、記録が少なく、詳しいことはわかっていない。「寛明日記」によると、江戸の商人が流行らせたと言う。箱根の関での調べによると、正月下旬から3月上旬までで一日平均500-600人が参詣し、3月中旬から5月までで平均2100人が参詣したという。参詣するものは皆「白衣」を着ていた。
参詣者:
当時の日本総人口:1781万人(1650年)
発生地域:江戸
期間:1月~5月
1661年(寛文元年)
1701年(元禄14年)
1705年(宝永2年)
宝永のお蔭参りは、本格的なお蔭参りの始まりで、2ヶ月間に330万~370万人が伊勢神宮に参詣した。本居宣長の玉勝間の記載によると、4月上旬から1日に2~3千人が松阪を通り、最高は1日23万人である。
参詣者:330万~370万人
当時の日本総人口:2769万人(1700年)
発生地域:京都
期間:
1718年(享保3年)
1723年(享保8年)
1730年(享保15年)
1748年(寛延元年)
1755年(宝暦5年)

中期

1771年(明和8年)
4月11日、宇治から女・子供ばかりの集団が仕事場の茶山から無断ではなれて、着の身着のままやってきたのが明和のお蔭参りの始まりと伝える。
ピーク時には地元松坂では、自分の家から道路を横切って向かいの家に行くことすら困難なほど大量の参詣者が町の中を通っていった、と当時の日記にかかれている。参詣者らは「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃しながら歩いてきた。集団ごとに幟を立てていたが、初めは幟に出身地や参加者を書いていたが、段々と滑稽なものや卑猥なものを描いたものが増えてきたという。お囃子も、老若男女がそろって卑猥な事々を並べ立てるようなものになった。
参詣者:200万人
当時の日本総人口:3110万人(1750年)
発生地域:山城の宇治
期間:4月~7月(5ヶ月間)
経済効果:
街道沿いの物価が高騰した。白米1升が50文が相場のときに、4/18には58文に上がり、5/19には66文、6/19には70文まではね上がった。わらじは5/3で8文だったものが、5/7には13-15文になり、5/9には18-24文に急上昇した。
街道沿いの富豪による「施行」もさかんに行なわれた。無一文で出かけた子供が、銀を持って帰ってきたといった事もあったという。初めは与える方も宗教的な思いもあって寄付をしていたが、徐々にもらう方ももらって当然と考えるようになり感謝もしなくなって、中にはただ金をもらう目的で参詣に加わる者も出てきた。
1803年(享和3年)

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後期

1830年(文政13年 / 天保元年)
文政のお蔭参りでは、60年周期の「おかげ年」が意識されていた。伝播地域は、明和よりも狭かったが、参加人数は大幅に増えている。
何故か参詣するときに、ひしゃくをもっていって伊勢神宮の外宮の北門で置いていくということが流行った。阿波の巡礼の風習が広まったとも言う。
参詣者:427万6500人
当時の日本総人口:3228万人(1850年)
発生地域:阿波
期間:閏3月初~8月末
経済効果:86万両以上
物価上昇が起こり、大坂で13文のわらじが200文に、京都で16文のひしゃくが300文に値上がりしたと記録されている。
1855年(安政2年)

末期

1867年(慶応3年)
ええじゃないか。厳密にはお蔭参りには入らないがお蔭参りの影響を受けている。ええじゃないかを参照。
明治に入り、明治天皇が伊勢神宮へ行幸したのをきっかけに伊勢神宮の性質が変容し、さらに、明治政府が御師の活動を禁じたために、民衆の伊勢神宮への参拝熱は冷めてしまった。『おかげ年』にあたる明治23年の新聞には、「お蔭参りの面影もなし」という内容の記事が掲載された。(NHK教育テレビ 『知るを楽しむ 歴史に好奇心』 10月放送分より)

お蔭参り(抜け参り)に参加した著名人

勝小吉(勝海舟の父) 少年時代に抜け参りに参加した。その経緯は自著『夢酔独言』に詳しい。
徳川重倫(紀州藩8代藩主)

参考文献

旅の文化研究所 編『絵図に見る伊勢参り』(河出書房新社、2002年) ISBN 4309242707
金森敦子『伊勢詣と江戸の旅 道中日記に見る旅の值段』(文春新書、2004年) ISBN 4166603752

http://www.knt.co.jp/kouhou/news/07/no11-0201.html

http://syukubo.com/off/circle/off0015.html

http://blog.hankyu-travel.com/mail_club/600/2005/000272.php

http://www.nagisama-fc.com/anime/

出雲の御国ご姉妹さん元気にされているのですかね?ナギ様ここで頑張っていますよ!

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