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インリン・オブ・ジョイトイさんについて

インリン・オブ・ジョイトイ

インリン・オブ・ジョイトイ(Yinling of Joytoy, 垠凌, 1976年2月15日 )は、台湾台北市出身で、現在は主に日本において活動するタレント、グラビアアイドル、歌手、女優。歌手としてはビクターエンタテインメント所属。

人物・経歴

自称「エロテロリスト」。セミヌードであるが、写真集等での過激な衣装やM字開脚が話題となる。着衣でのM字開脚も有名。

「ジョイトイ」とはКуратанов(クラタノフ: 写真家・作詞作曲家)とインリンが結成したユニットの名前である。つまり、インリン・オブ・ジョイトイとは「ジョイトイプロジェクトの一員であるインリン」という意味。ユニットとしては、独自の世界観を有し、写真・映像や音楽による表現活動を展開する。

本名は顔 垠凌(イェン・インリン, Yan Yinling)。実家は写真館を経営していた。俳優の金城武とは子供の頃同じマンションに住んでいて幼馴染。10歳の時、日本に移住する。桜美林短期大学出身。

2008年9月27日かねてより交際中のハッスルの元社員・藤原勇人と入籍。

性格はドSである。普段よく聴く音楽は、Kiroro。

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タレント活動

『愛のエプロン』でのエピソード

料理は大の苦手で、出演している「愛のエプロン」では常に順位が低く最下位も多。
同番組内では危険な料理を作る事が多く、いつまで経っても料理が上達しないと紹介されたこともあった。

[例]

魚介料理で内臓を取ることを全く知らなかった為、見た目が「グロテスク」である。
番組内で自分が作ったカニクリームコロッケを自分で食べてエチケットタイムになった(= 吐き出した)ことがある。和田アキ子がインリンの料理を食べているジャッジマンに大爆笑した結果、声を枯らしたこともある。酢豚を作った時には、審査員を全員エチケットタイム行きにしたこともあった。味付けを一切しない、手抜きを通り越した料理も作ったことがある。 その上で何がいけなかったのかを全く理解していないため、また同じようなことをしてしまう。 ただ、「見た目はグロテスクで、味は悪くない」というものを作ったことも数回あった。2004年7月7日に放送された愛のエプロンスペシャルでは、-999点という史上最低の点数を取った。 プライベートで炊飯器の使い方を知らず、壊してしまったこともあるという。その為、エロテロリストをもじって、「食テロリスト」と呼ばれたこともある。しかし2006年6月28日放送の愛エプ杯争奪SPの予選で作った海鮮あんかけ炒飯では料理女王杉本彩(86点)と2点差の84点といった上エプクラスの評価を受け、司会の磯野貴理をはじめとするメンバーを感動させた。本人曰く「お母さんが炒飯を作る姿をいつも見ていた」とのこと。しかし他のメンバーが次々と高得点を出した為、結局予選落ちとなってしまったが総合第5位にランクインするまでとなった。 2007年1月17日の放送では自宅のキッチンと冷蔵庫が番組内のVTRで初めて公開された、本人曰く「番組内で「料理が下手」だと散々言われ続けてきたので、みんなを見返してやりたいと言う気持ちで最近は料理を頑張っている。」と語っていた。また番組宛てに来たインリンのファンである小学生の女の子からの手紙が紹介され、それを聞いたインリンはとても感激したと言う。2007年3月21日のチャンピオンズリーグ予選敗者復活戦では、海鮮あんかけチャーハンでジャッジマンをうならせる出来も見せる。しかも、その前にカニクリームコロッケを作った安藤和津の90点、麻木久仁子の96点、海鮮あんかけチャーハンを作った夏樹陽子の91点を超える98点を叩き出した。これによりほぼチャンピオンズリーグ出場を手中に収めたかと思ったが、最後に料理を披露した青田典子の海鮮あんかけチャーハンが99点を獲得、まれに見る大逆転の連続に終止符が打たれ、またも1位獲得はならず悔し涙を見せる。しかし、ジャッジマンたちからは大健闘を称えられスタンディングオベーションを受けた。服部幸応がもらい泣きするほど感動的な場面であったが、その後、自身のレギュラー番組出演のためスケジュールが合わなくなったのか、以降同番組への出演が途絶えていた(同年7月4日放送のSP「天下分け目の3本勝負!」において、応援の形ながら復帰する)。また最近では「インリンより不味いのは恥である」というのが番組で定説になっていて長瀬智也(TOKIOのメンバー)が自身の作った料理が「インリンより不味い」という評価を下されて凹みリーダーの城島茂から料理指導を受けたという逸話もある。 2008年1月23日の昔は料理が下手だった芸能人大会では、約10ヶ月ぶりにキッチンに立ち、ミートソーススパゲッティを作り、ジャッジマンに高評価を受け、93点を叩き出し、2位の小倉優子の68点に25点もの差をつけて初優勝した。さらに自身のブログでは、自分で作ったチンジャオロースの写真を載せたり、最近の得意料理が中華で、マーボー豆腐が一番得意だと言っているが、愛エプでのトラウマか、何度もレシピを見て作らないと不安で食べられないと言っている。

その他

アニメ『アークエとガッチンポーてんこもり』では、チェルシー役で声優に挑戦している。2007年、サンテレビほか関東と関西の独立UHF局で放送されるお色気番組『インリンのM時ですョ!』で初の司会を務める。歴史認識などの面において反日的な論客としての側面も持ち、討論番組に出演するなどしている。一時期、吉岡美穂や榎木らんの3人で「ミイラン」(ミ=美穂、イ=インリン、ラン=榎木らん)という期間限定ユニットを組んでいた。なお吉岡とはレースクイーン:マリオレーシングギャルズでも同期だった。なお、「ミイラン」については契約を巡ってトラブルが発生している。

プロレス活動

プロレス『ハッスル』の地上波放送で進行役を務めたことが縁で、2004年12月の『ハッスル・ハウス クリスマススペシャル』(12月24日、後楽園ホール)より、悪役集団「高田モンスター軍」のナンバー2であり、同時に高田アマゾネス軍(モンスター軍の女子部門)のトップであるインリン様として登場。入場テーマ曲はモーリス・ラヴェルの『ボレロ』。

インリン様

インリン様はM字ビターン(M字開脚による洗脳)のスキルはきわめて高いものの、プロレス的意味における格闘技のスキルが無いために、「体の一部」として鞭の使用が許可されている。『ハッスル7』(2005年2月11日、愛知県体育館)で、6人タッグマッチながら小川直也との異色の対決が実現、デビュー戦にして小川からM字固めでピンフォールを奪って勝利した。同年7月の『ハッスル11』(7月15日、大阪府立体育会館)では川田利明ともタッグマッチで戦い、こちらはM字固めを回転エビ固めで返されピンフォールを奪われたものの、直前に投げ放った「体の一部である鞭がロープにかかっていた」として奇跡的なロープブレイク・無効試合の裁定が下っている。その後、『ハッスル・マニア2005』(11月3日、横浜アリーナ)ではHGとの6人タッグマッチが組まれた。結果はHGがインリン様をHG三角絞めで失神させフォール勝ちし、「インリン様」は黄泉の国に旅立った。

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それから暫く姿を消していたインリン様は、『ハッスル・ハウス クリスマススペシャル 涙のラストM字ビターン』(2005年12月25日、後楽園ホール)にて「この世界で使えるM字パワーが底をついた」と引退を宣言、ロープにムチを掛けると『さよならの向こう側』に乗せて山口百恵のようにリングを去っていった。なお、この大会でインリン様が最後の力を振り絞って産み落とした卵であるイン卵様から孵化した生命体が、日本のプロレス界を根こそぎ壊滅させるだろうと高田総統は断言した。

プロレスラーとしてのインリンは「インリン様」というキャラクターを演じきり、なおかつ出場した3試合全てで大会のメインイベントを務めたかと思えば、同時にM字開脚によって「暇で(異性に)もてない」プロレスファンを洗脳するという、WWEに於けるディーヴァの役割を担っていたと言える(ちなみに彼女がリングサイドで他の試合を優雅な椅子に座り観戦する事を「インリン様がご覧になる試合」、略してイン覧試合という)。そのキャラクターの徹底ぶりや、屈強なプロレスラーを向こうに回しての大立ち回りという話題性、そして僅か一年という短い期間で電撃的な引退という印象的な活動をして、単なる色物としてではなく、れっきとしたプロレスラー「インリン様」として評価するファンも少なくない。 だが、受け身の一つも取れず、レスラーとはとても言えたものではないことも事実である。

東京スポーツ新聞社主催「2005年度プロレス大賞」にて「プロレス話題賞」受賞。

ニューリン様

その後、興行や会見で披露される度に鶏卵大~1メートル超にまで成長を続けた(通常、卵は産み落とされてから大きくなる事はない)イン卵様だが、『ハッスル16』(2006年4月20日、大阪府立体育会館)のメインイベントにおいて孵化、インリンはイン卵様から生まれたニューリン様としてハッスルのリングに再登場。生後5分強?にして母の敵であるHGから勝利を奪った。またこの試合は(インリン様から通算して)自身初のシングルマッチであり、鋭いミドルキックを放ったり器用に丸め込んだりと、より戦闘的で凶暴なキャラクターに生まれ変わったという設定を表現するためにトレーニングを積んできた様子がうかがえる。

ニューリン様は母であるインリン様と比較して粗暴なキャラクターという設定であり、より攻撃的なファイトスタイルや下品な言葉遣いが特徴。コスチュームもピンヒールから動きやすいブーツに、また卵生であるが故、鳥類の羽をモチーフにした意匠が伺える。しかし粗暴なキャラは対外アピール向きではないとの判断からか、記者会見やイベント等には母であるインリン様が登場する場合が多い。

なおニューリン様はイン卵様の中に居た頃に、外部から何らかの衝撃を受けた影響で額に傷を負っており、その傷を隠すために顔半分を覆うマスクを着用している。その傷はモンスター軍が勝利する度に癒えていくという設定である。

『ハッスル18』(7月9日、パシフィコ横浜 国立大ホール)のメインイベントで高田総統に反旗を翻しモンスター軍を離脱。その原因は、額の傷が高田総統によるものだと知ったためである。その後『ハッスル・ハウス17』(7月11日、後楽園ホール)でHGの呼び掛けに応えてハッスル軍に入団、ハッスルポーズとM字開脚を披露した。

『ハッスル・マニア2006』(11月23日、横浜アリーナ)では、6人タッグマッチでカイヤを撃破するも、高田総統の化身ザ・エスペランサーのレーザービターンを受け右胸が爆発、意識不明の重体のうえ乳輪を失ってしまった。

再びインリン様

2007年2月16日に都内で行われたハッスルの記者会見において、突如インリン様が復活。この直前に高田総統がハッスルを買収したことから、インリン様は「総統がハッスルを支配する以上、私がお手伝いするのは当然」と語り、3月に行われる『ハッスル・ハウス22』(3月15日、後楽園ホール)及び『ハッスル21』(3月18日、愛知県体育館)への参戦を発表した。なお、この際ニューリン様について「現在あるところに監禁されており、心変わりするまで外には出さない」とも語られた。(参考:[1])

新たなイン卵様・プロレス引退

2007年6月17日、『ハッスル・エイド2007』(さいたまスーパーアリーナ)においてグレート・ムタとの初対決が実現(インリン様&TAJIRI vs ムタ&RG)。魔界の住人相手に果敢に攻め込むも、M字固めを切り返された直後にM字パワーの源である股間へ毒霧を噴射され、ショックで失神KO。担架で運ばれる緊急事態となる(試合そのものはTAJIRIが3カウントを奪われて決着)。

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その後7月11日の『ハッスル・ハウス26』に来場、深刻なダメージは無い事をアピールしM字ビターンを披露しようとしたが、リング上で突然つわりに襲われ病院へ直行。検査の結果「ご懐卵」である事が判明する。前回のニューリン様が遺伝子上の父親を持たない、いわばインリン様の完全なクローンであったのに対し、今回の新・イン卵様は稀代の大ヒール、グレート・ムタの遺伝子をも引き継いでいるという形でいわゆる「カブキ一族」としては初の女性形となるものと予想されていたが、8月18日の『ハッスル25』で生まれたのは曙に酷似したモンスター・ボノであり、インリンの化身ではなかった。

2008年5月24日、ハッスルを引退し、同時にプロレス活動休止。タレント・芸能活動に専念することになった。

写真集

焔の時代の物語
月刊インリン・オブ・ジョイトイ
造反有理
臨床実験
上海黄浦路20号
最終闘争
ミールのM
Woo Rin Yan
インカーネーション
ショータイム
垠凌侵略
正義の味方
M革命
インリンメガトンボックス(ネット写真集インリンメガトンボックス[2])(小学館)

DVD

ニカグダ
月刊インリン・オブ・ジョイトイ 血ト汗ト汁(監督:望月六郎)
紅色奴隷
闘争開始
非武装地帯
月刊インリン・オブ・ジョイトイ II

漫画

GUNDRAGON Σ(寺沢武一作のCG、写真を組み合わせて作画された漫画。インリンはヒロインを演じている。)

CD

特記なきは「JOYTOY」名義。

マキシシングル

堕落のбашня(バーシニャ)(2005年11月30日)
Are U Wake Up (Sham-Poo TV mix) / SUPER★BEST TRANCE V(2006年4月5日)

アルバム

愚民の恋(2003年12月25日)
愛ゎまぼろし(2005年12月16日)

その他

Be My Lover!! / DJ KAORI feat.Yinling of JOYTOY with DOBERMAN INC.(2004年12月16日)
Are U Wake Up ? / Yinling of JOYTOY vs. Takeshi Kongochi / SUPER★BEST TRANCE THE BEST AVCD-17784-5(2005年12月7日)
Can't Undo This !! 2006 / Sham-Poo feat. Yinling of JOYTOY / SUPER★BEST TRANCE VI AVCD-17978/B(2006年7月26日)
One More Time (4 Skips vs. Floorbreaker Club mix) / Daft Punk / SUPER★BEST TRANCE VII AVCD-23127 (2007年1月17日)
中国語ジャ-ナル

PV

餓鬼レンジャー『MONKEY 4』(出演当時、内容が過激と判断されたため、マクドナルドでの放送が途中で中止になった。)
JOYTOY『堕落のバーシニャ』

ライヴ

JOYTOY ライヴツアー2005~2006(全国クラブ等約50回)

脚注

^ 営業用として公式には生年月日を1978年2月15日としている。
^ 所属事務所は「中国人」と表記している。
^ 最近、テレビ番組で体が硬く、実は苦労していることを告白した。
^ http://fujiwarahayato.blog.players.tv/
^ 2007年7月22日の本人ブログより。
^ 『明石家さんちゃんねる』より。
^ 「ミイラン」問題の概要

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武豊さんについて

武 豊

武 豊(たけ ゆたか、1969年3月15日)は日本中央競馬会 (JRA) の騎手。栗東所属で、現在はフリー。身長170.5cm、体重51kg。血液型O型

来歴

現在JRAのトップ騎手であり、数々の記録を持ち「天才」と呼ばれることも多い。

妻は元タレントの佐野量子。

武一族の出自は鹿児島の武家(薩摩藩士)であり、日本でも有数の競馬一族の出自である。

父の邦彦は、「名人」や「ターフの魔術師」の異名で知られる元騎手・元調教師。
弟の幸四郎も騎手。
兄(長男)の伸はスポーツライター。
祖父の武芳彦は馬主協会元会長。
父の叔父に武輔彦元調教師、武富三元騎手、武平三元調教師。
父の従兄弟に武宏平調教師、武永祥調教助手。
はとこに武英智騎手(武永祥の長男)。
父の従姉妹の夫に作田誠二調教師。
父の従兄弟に武勇武牧場前代表。
金勝小学校、栗東中学校、競馬学校(3期生)を経て1987年にデビュー。デビュー年より毎年重賞を勝ち続けている。1988年に菊花賞で優勝したのを皮切りに、21年連続でGI競走を制覇している。

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現在、GIおよびJpnI競走通算 中央62勝、地方交流Gを16勝(うちJpnI3勝)、海外GI競走を7勝。 未勝利の国内平地GIおよびJpnIはヴィクトリアマイル、マイルチャンピオンシップ、朝日杯フューチュリティステークス(JRA主催分)、かしわ記念(2005年より統一GIに昇格し現・統一JpnI、船橋競馬場で開催。なお、統一GIII時代の1997年にバトルラインで優勝)の4競走のみである。

成績

記録年表

1987年

栗東・武田作十郎厩舎所属でデビュー。初騎乗は3月1日1回阪神2日目第4競走アグネスディクター(2着)。初勝利は、3月7日1回阪神3日第3競走のダイナビショップ。加賀武見の持っていた新人記録の58勝を上回る69勝を挙げた(なお、この記録は2008年に三浦皇成によって21年ぶりに更新された)。

1988年

4月16日に史上最年少(19歳1ヶ月)でJRA通算100勝達成。(史上最速100勝記録は2009年2月7日に三浦皇成が更新)。 菊花賞でスーパークリークに騎乗し初GI勝利にして史上最年少(19歳8ヶ月)でクラシック制覇。

1989年

3月4日に史上最速・最年少(19歳11ヶ月)でJRA通算200勝達成。
11月25日に史上最速・最年少(20歳8ヶ月)でJRA通算300勝達成。

1990年

8月5日に史上最速・最年少(21歳5ヶ月)でJRA通算400勝達成。
1991年
7月21日に史上最速・最年少(22歳4ヶ月)でJRA通算500勝達成。
アメリカ・サラトガ競馬場のセネカハンディキャップ(G3)でEl Senor(エルセニョール)に騎乗し、初めての海外グレード競走(およびグループ競走)制覇。

1992年

武田作十郎調教師の定年による厩舎解散に伴い、フリー転向。 天皇賞(春)でメジロマックイーンに騎乗し、史上初の同一競走4連覇を達成。 8月29日に史上最速・最年少(23歳9ヶ月)でJRA通算600勝達成。

1993年

4月17日に史上最速・最年少(24歳1ヶ月)でJRA通算700勝達成。
桜花賞(ベガ)・皐月賞(ナリタタイシン)・優駿牝馬(ベガ)と春のクラシックを3連覇。

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1994年

1月6日に史上最速・最年少(24歳10ヶ月)でJRA通算800勝達成。フランス・ロンシャン競馬場のムーラン・ド・ロンシャン賞でスキーパラダイスに騎乗し、JRA所属の騎手としては初めての海外G1勝利。
9月11日に史上最速・最年少(25歳5ヶ月)でJRA通算900勝達成。

1995年

7月23日に史上最速・最年少(26歳4ヶ月)でJRA通算1000勝を武邦彦管理馬のエールノコイビトで達成。

1996年

4月1日に史上最速・最年少(27歳1ヶ月)でJRA通算1100勝達成。
11月9日に史上最速・最年少(27歳7ヶ月)でJRA通算1200勝達成。

1997年

6月28日に史上最速・最年少(28歳3ヶ月)でJRA通算1300勝達成。
北九州記念でダンディコマンドで優勝し、史上最速・最年少(28歳4ヶ月)でJRA重賞通算100勝達成。
函館3歳ステークスでアグネスワールドに騎乗、史上2人目の中央競馬全10場重賞制覇達成。

1998年

1月24日に史上最速・最年少(28歳10ヶ月)でJRA通算1400勝達成。6月7日、東京優駿でスペシャルウィークに騎乗。東京優駿を初制覇を果たすとともに保田隆芳以来30年ぶり史上2人目となる八大競走完全制覇達成。8月9日、フランス・ドーヴィル競馬場のモーリス・ド・ゲスト賞でシーキングザパールに騎乗し、日本調教馬初の海外G1制覇に導く。8月23日に史上最速・最年少(29歳5ヶ月)でJRA通算1500勝達成。

1999年

3月28日に史上最速・最年少(30歳1ヶ月)でJRA通算1600勝達成。
6月6日、東京優駿(日本ダービー)でアドマイヤベガに騎乗、史上初となる日本ダービー連覇達成。
10月30日に史上最速・最年少(30歳7ヶ月)でJRA通算1700勝達成。

2000年

4月23日に史上最速・最年少(31歳1ヶ月)でJRA通算1800勝達成。
7月13日、ジュライカップをアグネスワールドで勝利し、近代競馬の発祥地英国での初G1制覇。

2001年

1月13日に史上最速・最年少(32歳7ヶ月)でJRA通算1900勝達成。

2002年

5月26日、東京優駿(日本ダービー)でタニノギムレットに騎乗、史上初となる東京優駿(日本ダービー)3勝目。9月21日に史上最速・最年少(33歳6ヶ月)でのJRA通算2000勝達成。 12月7日、阪神競馬場にてJRA新記録、世界タイ・レコードとなる1日8勝を記録

2003年

3月21日に史上最速・最年少(33歳11ヶ月)でJRA通算2100勝を達成。
9月14日に史上最速・最年少(34歳5ヶ月)でJRA通算2200勝を達成。
JRA史上初の年間200勝達成(最終的には204勝)。 年間通じて、JRA・地方における全GIに騎乗。
騎手としては初めて東京競馬記者クラブ賞・関西競馬記者クラブ賞を同時受賞。

2004年

2月15日に史上最速・最年少(34歳10ヶ月)でJRA通算2300勝を達成。
8月22日に史上最速・最年少(35歳5ヶ月)でJRA通算2400勝を達成。
11月14日にエリザベス女王杯でアドマイヤグルーヴに騎乗、史上初となる同競走4連覇達成。
12月8日、海外通算100勝を達成。12月12日、中央競馬史上初の2年連続で年間200勝を達成、前年に自ら記録した204勝の年間最多勝利記録を更新する211勝。

2005年

1月23日に史上最速・最年少(35歳10ヶ月)JRA通算2500勝を達成。
2月26日、アーリントンカップにビッグプラネットで優勝し、中央競馬史上初の重賞競走通算200勝を達成。
3月27日、中京競馬場で行われた高松宮記念にアドマイヤマックスで勝利し、JRAのGI競走が行われた全ての競馬場でGI勝利。5月29日、東京優駿(日本ダービー)でディープインパクトに騎乗し東京優駿(日本ダービー)4勝目。また同競走により、年間100勝最速記録を更新。
7月17日にJRA2600勝を史上最速・最年少(36歳4ヶ月)で達成。9月4日、小倉2歳ステークスをアルーリングボイスで優勝。史上初の同一年小倉開催平地重賞完全制覇達成。9月17日から9月24日にかけて、騎乗機会連続7連勝達成(24日第9競走)。9月24日、1日の騎乗機会6連勝のJRA新記録を達成。
10月23日、ディープインパクトの三冠(史上2頭目の無敗三冠)達成で自身も初の同一馬による三冠ジョッキー。
11月26日、ジャパンカップダートにカネヒキリに騎乗して優勝、JRAのGI年間6勝の新記録達成(地方交流統一GIを含めると年間10勝の日本記録を達成)。
12月18日、阪神牝馬ステークスにアドマイヤグルーヴに騎乗して優勝し、年間重賞勝利23勝とし、自らの記録を上回る新記録を樹立。年間勝利数を212とし、前年の自らの最多勝記録を更新。

2006年

1月8日の京都競馬第9競走にてJRA2700勝を史上最速・最年少(36歳10ヶ月)で達成。
7月23日の小倉競馬第12競走にてJRA2800勝を史上最速・最年少(37歳4ヶ月)で達成。

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2007年

4月21日の京都競馬第7競走にてJRA2900勝を史上最速・最年少(38歳1ヶ月)で達成。
7月21日、JRA歴代最多勝記録2944勝を更新、小倉ターフ賞も初受賞した。
10月28日にメイショウサムソンで天皇賞(秋)を制し保田隆芳に並ぶタイ記録の天皇賞10勝目をマークする。
11月3日、京都競馬第1競走で3000勝を達成。3年ぶり8度目となる関西競馬記者クラブ賞を受賞。

2008年

5月10日、京都競馬場における通算1000勝を達成。
6月15日に史上最速・最年少(39歳3ヶ月)JRA通算3100勝を達成。
11月2日、天皇賞(秋)競走をウオッカで勝利し、天皇賞通算11勝目を挙げて保田隆芳を抜いた。
11月3日、JBCクラシックをヴァーミリアンで勝利し、前日の天皇賞(秋)の勝利とあわせ日本人騎手では初となる2日連続GI・JpnI勝利という快挙を決めた。

2009年

4月12日に史上最速・最年少(40歳1ヶ月)JRA通算3200勝を達成。

武豊さんに情報ならここから!

http://sports.nifty.com/take/

http://db.netkeiba.com/jockey/00666/

http://canlubang.exblog.jp/

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